第5回「ノホホンの会」報告  

2011年10月13日(木)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室
参加者:六甲颪、 狸吉、致智望、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問 

山勘さん、恵比寿っさんが急遽欠席となり、人数的には少しさびしい会でしたが、六甲颪さん、狸吉さんの久しぶりの参加で書感、エッセイともに充実し、普段どおりの盛会になりました。

今月の書感とネットエッセイ

 「地図から消えた島々」(六甲颪)、「決断できない日本」(同)、「日本中枢の崩壊」(本屋学問)、「活気にあふれた江戸の町−『熈代勝覧』の日本橋」など(狸吉)、「十字軍物語U」(致智望)、ネットエッセイは、「古代の刑罰、『ほつまつたえ』より」(ジョンレノ・ホツマ)でした。執行猶予や減刑など近代法に通じる合理性、時間や角度の概念など、「ほつまつたえ」は皆さんの興味が次第に先に向かっているようで、今後の解説が楽しみです。

 「地図…」は地理学上、地政学上大変興味深い内容ですが、位置に関して経度の測定精度が大きな問題だったことは面白いですね。「決断できない…」「日本中枢…」は奇しくも外と内から現在の日本の問題点を浮き彫りにしたことで共通しています。今後の国家運営の参考になればと考えます。「十字軍…」はさらに佳境に入るようで、依然として解決しない宗教紛争への有効な解決策は見出せるのでしょうか。

 江戸時代の市民生活を活写した「熈代勝覧」に代表される江戸文化は、むしろ海外での評価が高く、最近の江戸ブームはご多聞に漏れず欧米の日本研究の逆輸入のようです。

 なお、「中国のジレンマ 日米のリスク」(恵比寿っさん)はご本人が欠席でしたので、次回にお願いします。

(事務局)

書感 2011年10月分
 地図から消えた島々/長谷川亮一(吉川弘文館)

 最近の国際紛争の種といえば小さな島々の所属問題で、しかも問題が中々解決しないままの状態が続いているが、本著はこれら島々の発見から今日までの変化を多くの実例をあげて解説している。その主な事件の要点を記してみたい。

 島々の領有権を各国が主張するようになったのは、ごく最近の100年位前であって、それまでは自国の領海とは陸地から十数キロまでで、その外側は公海とし誰もが自由に利用することが出来た。しかし、新しい島々が発見される中に貴重な鉱物、生物が発見され出すと、各国の帝国主義者や冒険商人によって領有の主張が起き、新たに国際条約を作らざるを得なくなった。同時に領有を主張するあまり、島の存在が怪しい事例が出てきた。

1 疑存と疑位

1492年、コロンブスのアメリカ大陸発見以降、スペイン、ポルトガルをはじめ諸国の探検家が新島発見に乗り出したが、新島発見が偽りであったり、位置の測量に誤りがあって再発見できない島が明らかにされてきた。図1は主な5つの疑存島(太字記入)と図2は現在、北太平洋にある主な実存の島々である。

①ロスジャルデイン島 1592年発見1972年削除

②アプレオジョス島 1543年スペイン人発見、1904年再発見、1924年削除

③イキマ島 1897年登録、1906年削除 水没?

④グランパス島 1788年イギリス人発見 1885年登録 1900年削除

⑤中の鳥島 1907年日本人(山田禎三郎)発見 1943年削除

等が、代表的な地図から消えた島々である。

2 小笠原島名の由来と日本への帰属

江戸時代の享保12(1727)年に、小笠原貞任という浪人が無人島探検を申し入れた。この島は曾祖父の貞頼が1593年に発見し、「小笠原島と名付けて開拓をした」となっていたが、不審なところが多かったので奉行所は貞任の申し入れを受け付けず、逆に追放した。それから200年あまり経過した後、小笠原島の開拓を開始した。同時に島名も「小笠原島」と正式決定した。これは欧米からの島々に対する侵入が増え、その防止策でもあった。その後、この島への入植者も増え1875(明治8)年、日本の領土と認知された。

3 中の鳥島の発見と消滅

1908年、東京在住の山田禎三郎という人物から「小笠原諸島に属する島を新たに発見した」という届出があった。同時に地図や動植物の調査資料も付けられていた。しかし、この山田という人物は周囲の評価が悪く、他人の見つけた権益を横領しようとした。しかし、1911年にアメリカ軍艦がこの島付近を捜索したが、島らしいものは見つからなかった。

 このように多くの島が地図から消えたが、これは島自身が噴火の後水没したのか、あるいは経度測量の誤りであったのか、疑問点が残されている。

(六甲颪)



図1 北太平洋の島々

図2 五つの疑存島

決断できない日本/ケビン・メア(文春新書)

 日米同盟という形で日本とアメリカは付かず離れずの関係が続いているが、特に米軍の沖縄基地問題については、日本国内の新聞、テレビからの報道に従って一般国民はその状況を判断してきた。ここで紹介されるケビン・ケア氏は、アメリカ人でありながら武士道の精神に惹かれて来日しすでに滞日30年に及ぶ日本通であるだけでなく、その見識を評価されて日米間の重要な会合には関与してきた履歴を持っているので、その著作に現れる意見から新しい知見が得られると思うので、その概要を紹介することにした。

 ケビン・メア氏についてはすでにご存知の方も多いと思うが、有名になったのは昨年(2010年)の暮れに「沖縄はごまかしとゆすりの名人」云々の発言があったとする報道があったとする件で、アメリカ国務省と駐日大使から厳しく批判され、翌年の3月10日には国務省の日本部長を解任するという厳しい処罰を受けた。

そこで、メア氏はやむなく退官を決意したところ、その翌日(3月11日)、M9.0という巨大地震と大津波が東北3県を中心に起きてしまった。メア氏は直ちに「このままでは退官はできない。何とか日本を支援しなければ…」と考えていた時、ほとんど同時に国務省から「退官は思いとどまってくれ、代わりに滞日支援のためのコーデイネータをお願いしたい」との依頼があり、いわゆる「トモダチ作戦」に対応することとなったのでる。

さて、メア氏はここで敢然と「沖縄のごまかしとゆすり」の発言が、ある日本の女性の誘導によって作り上げられたものであること、今までの日米間の話し合いが上手く行かない原因は、日本政府の優柔不断な対応が原因であること、その根底には沖縄基地反対派への配慮が強すぎるためであること等を実例を挙げて、この著書に書き記したのである。

それ以外に、ここ10年間に次々と代わった日本の総理大臣についての観察は、彼なりの鋭い観察には思わず頷いてしまう程であった。最後の締めくくりに、「問題は日本の政治レベルの低さにある。責任を取らずに自己保身することから1日でも早く脱却しなければ、中国、ロシアに沖縄と北方諸島は奪われてしまうであろう。」と述べている。危機意識は、一般の日本人よりはるかに高い。



(六甲颪)


 日本中枢の崩壊/古賀茂明(講談社 2011年5月 本体1,600円)

「最も賢い処世術は、社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」。これは、芥川龍之介の「侏儒の言葉」にある「処世術」(正字は處世)について書かれたものである。しかし、よく考えてみると、あれだけ前政権を批判し、悪弊をなくすと国民に訴え、新しい日本をつくると公言した民主党政権は、まさにこの処世術を実践したとはいえないだろうか。

政治主導、公務員改革、財政改革…。耳に心地良い公約を掲げ、華々しく政界に新風を巻き起こしたかに見えた民主党も、あの東日本大震災と原発事故によって自らの未熟さと無能さをすっかり露呈してしまったが、それ以前からも実は旧態依然の政治システムを踏襲し、何ら新味のない空想をあたかも未来構想のように打ち上げ、内政はもちろん、外交、国際経済まで、ほとんど詐欺に近い形で国民を裏切ってきた。

素人同然の人たちに安易に国家運営を任せた選挙民にも責任はあるが、課題のほとんどが前自民党政権の尻拭いとはいえ、これほどまでに国家の威信を貶め、日本人の自尊心を傷付けた政府もなかったのではないか。

その最もわかりやすい例の一つが、本書の著者である改革派官僚だった(2011年9月に経済産業省を辞めた)古賀茂明氏の処遇をめぐってのいきさつだ。

公務員制度改革の流れは、実は安倍政権から始まっている。当時の渡辺喜美行政改革担当大臣が官僚依存の自民党長老たちと真正面から対峙し、官僚たちの抵抗と必死に戦う姿は、国民の目にも頼もしく映ったはずだ。本書によれば、安倍総理の強力なリーダシップが、最終的に天下りの斡旋を禁じたこの画期的な国家公務員制度改革基本法を成立させたそうだ。当然、この法案への霞が関の反発は尋常でなく、官僚のサボタージュを呼び、それが政権崩壊の一因といわれた。

後継の福田首相は何事にも消極的で、渡辺大臣の改革法案阻止だけは積極的という時代錯誤ぶりを示した。報告書を受け取るときも「日本は政治家が弱いんですよ。こういう国では官僚は強くなければいけないんですね」という“迷言”を残したと本書は書いている。こんな愚かな首相が何人も続けば、国民の目が曇るのもうべなるかな、かもしれない。

 その後、古賀氏は、旧知の渡辺大臣の強力な推薦で改革推進本部事務局の幹部に起用される。福田総理も官房副長官も登用に難色を示したが、渡辺大臣は押し切った。後の民主党政権でも、仙石行政刷新担当大臣が古賀氏を起用しようとしたが、霞が関の反対に遭うとあっさり方向転換した。「ここが仙石大臣と渡辺大臣の力の差だ。覚悟の違いといってもよい」と古賀氏は明確に述べている。民主党のリーダーの器が、せいぜいがこの程度なのだ。

 ところが、である。事務局発足のわずか1か月後、福田政権の内閣改造で渡辺大臣は辞めさせられ、後ろ盾を失った著者らは守旧派の猛反撃に合い、改革は頓挫する。その後、政権の座に着いた頼みの綱の民主党は、野党時代は積極的だった公務員改革を限りなく後退させ、結局は画餅に終わった。霞が関に立ち向かうには、民主党はあまりにも無知で無力で無能で、理想もビジョンもなかった。おそらく彼らには、本書の内容すら理解できていないのかもしれない。

 古賀氏は最近まで長く無任所にあり、上層部から辞職勧告を受けていたが、古巣の経済産業省を去るにあたり、新しい枝野幸男大臣に踏絵を突き付けた。自分を起用する意志があるかと問うたのである。しかし、枝野大臣は辞表を出してもよいと応じ、改革の芽はここでも摘まれた。前任者の海江田大臣も同じだった。これで民主党は、改革と名の付くものはいっさいやらない守旧政党であることがはっきりしたのである。

 古賀氏は辞任の挨拶のなかで、今後は民主党政権ではなく別の政権で改革に参画したいと語っている。古賀氏の無念さは想像するに余りあるが、いつの日か真の実力と知力と胆力を備えた政権が誕生したとき、改めて彼の能力を最大限に発揮できる場が与えられることを願っている。せめてそれまでマスコミは、彼の存在と発言を国民に知らせ続ける義務がある。

(本屋学問)


十字軍物語Ⅱ/塩野七生(新潮社 定価2,500円)

本書は、第Ⅰ巻に続く第Ⅱ巻である。第Ⅰ巻では、十字軍によるイェルサルム奪還に至る物語であったが、この第Ⅱ巻はそれによって形成された十字軍国家郡がイスラム勢力圏内にてその存在を維持し続ける難しさを書き綴る内容である。

聖地イェルサレムを奪還されたイスラム側は、再度その奪還に向けた行動が行われるのであるが、当初はキリスト側の強力な軍事力と統治能力によって見かけ上平穏に推移して行く。しかし、イスラム圏の中に入り込んだ十字軍国家の統治は容易では無く、世代交代による統治能力の落ち込みが大きく影響する結果、その一角であるエデッサが陥落するに至り、感情的に怒ったキリスト側、と言っても遠く離れたヨーロッパ諸国であるが、第二次十字軍を編成し送り出すほどのショックとなって、それが実現する下りから始まる。

しかし、このとき構成された十字軍は、名誉心の強いものの集まりで大義名分が心もとなく、しかも第一次のような背水の陣的な人材の集まりではなく、単に熱気的な功名心に拘る侯が多く参加していた、その結果は自縛的な敗退に帰してしまう。それでも、この十字軍国家郡はその後88年続くのである。そして、この第Ⅱ巻はその間のイェサレムの統治とイスラムからの防衛の物語として、緊張の続く内容がとても面白く現代社会にも通じる内容である。

何と言っても、会戦、戦闘の連続であり、常に少数の兵力で戦わざるを得ない十字軍国家側の戦略と活躍する宗教騎士団、そして指揮する軍団の指揮官の能力、それらを統治する国王の統治能力などが克明に記されていて面白い。そして、最後の戦闘となる「ハッティンの戦い」は、イスラム側キリスト側を指揮する指揮官の有能な者同士の戦闘の結果が、我々現代社会に於ける経営者に一脈通じるところが有って面白い。

当然、圧倒的兵力の差によってイスラムの勝利として終わるのであるが、有能なる指揮官同士の戦闘と終結後の行動は、見事なものであり勝者と敗者の関係はかく在るべきと思わせるものである、後世の軍人世界のありようを示すものと思うものである。

これにて第二巻は終了するのであるが、流石にヨーロッパが受けるダメージは大きく、その結果、第三次十字軍が編成されるのことになり、発売が予定されている「十字軍物語第三巻」へと続く。請うご期待と言うところである。

(致智望)


活気にあふれた江戸の町−「熈代勝覧」の日本橋 小澤弘・小林忠著 (株)小学館 2006年 \1,900+TAX

 熈代勝覧(きだいしょうらん)とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」との意味で、文化2年(1805年)の日本橋通り約760mを克明に描いた絵巻物。軒を連ねる店舗、人馬や犬猫、猿や鳥まで丹念に描き込まれ、眺めていくと街の賑わいが肌で感じられる。まるで江戸時代にタイムスリップしたようだ。



 「熈代勝覧」は別書「大江戸日本橋絵巻−熈代勝覧の世界(浅野・吉田編)」が2003年に講談社から出版されたが絶版となり、現在新本で入手できるのは本書のみである。本書は以前のものより少し薄いが読みやすく工夫されている。

 元の絵巻は縦43cm横1.230cmの長大なスペースに1600余の人々を描いているので、一様に縮小するとやや平板な印象を与えるであろう。本書は絵巻の見所を別ページでクローズアップし、さらに半透明の枠内に解説を記入している。解説を読んで江戸の知識を頭に入れ、拡大鏡を手に絵巻の隅々を眺めて行くと、江戸時代の日本橋界隈を散策しているような気分になってくる。著者の工夫と読者へのサービス精神に敬意を表する。


(狸吉)



エッセイ 2011年10月分

古代の刑罰「ほつまつたえ」より


紀元前の古代日本は立派な司法国家であったことが、「ほつまつたえ」より読みとれますので紹介します。


一つは「くらきね」という「いさなぎ」の弟が亡くなってからの話からです。


「くらきね」は北陸を治めていましたが、亡き後「しらひと」なる者が、ますひと(代官)になりました。勝手な行動が目に余ると訴えられます。

その「しらひと」は、邪魔になった母(さしみめ、「くらきね」の妻)とその子供(くらこ姫)を「こくみ」という者の所へ追い出し、「こくみ」は二人を同時に犯して辱めました。

代官の「かんさひ」はこれを正せずにいるという内容です。詳しくは「ほつまつたえ」の7綾(7章)を参照下さい。

直ちに出頭を命じられ、裁判にかけられ判決が言い渡されます。


「こくみ」に対して

1.君(くらきね)の恩を忘れ、葬送の祭りを怠った罪、百科(ももくら)

2.母の厚情による支援を裏切った罪、二十科(ふそくら)

3.母を犯す罪、百科(ももくら)

4.「おしで」(証文)に対する偽証の罪、百科(ももくら)

5.姫をないがしろにした罪、五十科(いそくら)

罪状全てで、三百七十科を申し渡す


「しらひと」に対して

1.君・母からの恩を忘れた罪、二百科(くら)

2.妻を追い出し流浪させた罪、百科

3.母娘を踏み荒らす(狼藉)罪、五十科

4.賄賂(わいろ)を掴(つか)む罪、六十科

罪状全てで、四百十科


ここで、罰則について、「とほこ」の法というが基になっています。

「とほこ」とは、「と」の導き、「と」の教えのことで両大神が天神から授かったもの、そして、「ほこ」は「さかほこ」(栄桙)を示しています。


具体的には、全天、三百六十度を三百六十科としており、三百六十度を四つに割って、最初の四つ割の一つ、三百六十度の四分の一、すなわち 九十科で「所を去る」

次に四分の二、百八十度(科)で「流離う」(島流し)

次に四分の三、二百七十度(科)で「人との交わり去る」(追放刑)

四つ割の全て、三百六十度(科)で「命去る」(死刑)と罰則が決められていました。


今回の罪は四つ割(三百六十科:死刑)を越えている。よって、「ほころびと」(死刑)の制裁を加える。「つつが」(牢獄)に入れよと申し渡されました。


後日、「もちこ」という天照神の妃の恩赦により罪が半減され、「ひかわ」(斐伊川、島根県)に流刑の身となります。

また、「そさのお」の時の判決についても、同じ7綾の中にあります。


「そさのお」の罪状が言い渡され、罪状は千科もありました。天の巡りで決められた罪状は三百六十科が死罪ですから、何と死罪の三倍も残忍で、三段死(みきだがれ)という三回死ぬ程の惨い死刑を言い渡しました。


刑が執行され、髪の毛は抜かれ、爪も剥ぎとられようとしていて、まさに殺されようとしていた時です。「むかつ姫」(中宮、せおりつ姫)の申し出が勅使より告げられました。


「うけもの」(倉稲神・うけみたま)に祈ったので「はなこ」の御霊は無事天国へお送りしました。よって「はなこ」殺しの四百科は償われましたので、罪を白紙に戻すようお願いします。「そさのお」の性格は生まれつきの遺伝です。ですから、本人には罪は無いので牢獄から出してやれないものでしょうか。

「ことのり」(情状酌量を願う減刑要請)を諸神が審議した結果、天の理に背く重罪ではあるが、身内の好しみにより、罪を半減して、「まじわりさる」(追放刑)に処することにしました。


紀元前の日本に、この「とほこ」の法という、公平で分かり易い立派な司法制度があったことに驚きます。自分の認識では、今の交通違反の反則点数のように、罰則規定が、何点になったらどうなる、というのが、この時既に、法が公けになっていたということになります。


紀元前にすでに文字があったからこそ、こういう記録が残ったわけです。

何と素晴らしい文明国であったかと誇らしく思います。

(ジョンレノ・ホツマ)