第3回「ノホホンの会」報告

2011年7月21日(木)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室)
参加者:六甲颪、智致望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問

 六甲颪さん、恵比寿っさんのご尽力で例会会場を安定的に確保できることになり、当会は順調な滑り出しです。今回は狸吉さんが重要業務でやむを得ず欠席でしたが、書感、ネットエッセイともに内容の充実したものになっています。

(今月の書感とネットエッセイ)

「グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた」(恵比寿っさん)、「安心したがる人々」(智致望)、「人情『安宅の関』」(六甲颪)、「モールス通信士のアメリカ史―IT時代を拓いた技術者たち」(狸吉)、「国民の歴史」(本屋学問)でした。

ネットエッセイは、「時空のスケール」(恵比寿っさん)、「備えあれば患いなし」(本屋学問)、「ユッケ禁止に付いて思うこと」(智致望)、「『ほつまつたえ』に見る神武天皇のお人柄」(ジョンレノ・ホツマ)、「落とし物は笑い物」、「落とし物は罪つくり」(いずれも山勘)でした。

「グーグル…」は、かつてアップルやグーグルが目指す企業だったソニーの低迷とアメリカ式経営の破綻を対照させた好書です。世界のモラルが怪しくなっている現在、改めて人類の知的水準の向上が求められています。20%ルールといい、興味深い内容でした。「安心したがる人々」も著者の識見溢れるエッセイで、むしろ政府やマスコミの判断基準にしたいほどです。「落とし物」は山勘さんの意外な一面が垣間見え、微笑ましくもありました。

なお、「ユッケ…」は当日紹介されませんでしたが、添付しました。また、「落とし物…」2題は山勘さんからデータをいただき次第、ホームページに掲載します。また、「モールス通信士…」は狸吉さんが当日欠席のため、次回に紹介をお願いします。

(アフターミーティング)
当日はちょうど土用の丑の日だったので、会の後は六甲颪さんお勧めの「大文字」で鰻丼コー
スと冷たい美酒で舌鼓を打ちました。実に楽しいひと時でした。

(事務局)

書感 2011年7月分
 

グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた/辻野晃一郎(新潮社 本体1500円)
 

 著者(1957年生まれ)は慶応義塾大学工学研究科を修了しソニーに入社(84年)。88年CALTEC(院)修了。VAIO、スゴ録など大ヒット商品を生む。06年3月ソニー退社、07年グーグル入社、09年グーグル日本法人代表取締役社長。10年4月グーグル退社してアレックス鰍創業。

プロロ−グ

親は東大へ行き大蔵省か日銀に入れと奨めたが、自分の人生は自分でという思いで理系を選択、縁故のないソニーへ入社(22年間勤務)。日本企業の枠を超えたソニーがなぜ新しいモノを生み出せなくなったか。しかし、ソニーはアップルやグーグルの手本となる企業だった。その後3年間、グーグルで共通するカルチャーやスピリットを感じた(詳しくは各章に述べられている)。

 

第1章 さらばソニー

当時のソニーは完全にガバナンスを失っていて、散々辛酸をなめていた。時代感覚を無くしてメガトレンドに疎く、プライドやビジョンを軽視した保守的な言動。挑戦者を粗末に扱い、それを何とも思わない人々の横行。そしてコネクトカンパニー(ipodの対抗機PJT)は1年後に解体。これを機に退社。

第2章 グーグルに出会う

辞めて創業したが、グーグルからスカウト。トライアウトのような面接だった。グーグルの人材採用が①地頭の良さ(知識よりも未知の問題解決を論理的に導き出す能力)②結果を出す人かどうか③リーダーシップ④グーグリネス(グーグルのカルチャーに合うか)という基準で行われている。

第3章 ソニーからキャリアを始めた理由

第4章 アメリカ留学

第5章 VAIO創業

第6章 コクーンとスゴ録のチャレンジ

第7章 ウォークマンがipodに負けた日

第8章 グーグルの何が凄いのか

グーグルの急成長はいろいろな面で非常識だからである! すべてがハンズオン(自ら動く)。立場が上がれば秘書や部下任せの日本とは逆。稼ぎはオンライン広告、それ以外の活動は採算などを考えずに自由にできる(+20%ルール)

第9章 クラウド時代のワークスタイル

第10章 グーグルでの日々

第11章 グローバル時代のビジネスマインドと日本の役割

NET時代には、日本の完璧主義が足を引っ張る

エピローグ

ソニーでやりたかったことはグーグルに来て再確認出来た。変化の時代には、やるリスクより、変化を恐れて何もしないことのリスクのほうが大きい。激務ながら表情が明るいのは仕事を楽しんでいるからだ。


個人的には、第8章に紹介されているGoogleの理念「グーグルが見つけた10の事実」に興味を持ちました。→http://www.google.com/intl/ja/corporate/tenthings.html

以前のソニーのような会社は、私が社会人になった頃は、あちこちにありました。アメリカ流の管理形態(ミッションと成果主義の個人評価やガバナンス)をグローバル流と勘違いした経営者が跋扈して、日本の文化に馴染まないやり方を導入しておかしくなったと感じています。見直しも始まっているようですが。

なお、著者はソニーに育てて貰ったことを感謝していることも文中で明言している。スピンアウトした者が愚痴を語っているというような印象は全く受けなかった。しかし、音楽配信ビジネスを先行しながらもipodに負けてしまった、硬直的な企業になってしまったsonyの内幕も理解できました。

(恵比寿っさん)

 

モールス電信士のアメリカ史―IT時代を拓いた技術者たち/松田裕之(日本経済評論社2011年 本体2,800円)

 
情報通信を教える大学教授が書き下ろした実にユニークな歴史書。アメリカにおける電信事業の興隆から終焉まで、約160年の歴史を数々の興味深いエピソードを交えながら物語っている。「デジタル化された情報が地球規模のネットワークを流れていく状況は現在のインターネットと同じ。電信士はIT技術者のはしり」とのこと。本書は単なる技術の歴史書ではなく、電信の普及に伴う社会の変革に多くのページを費やしている。


アメリカ訪問中の岩倉具視が、サンフランシスコからワシントンにいたモールス本人と電信で挨拶を交わしたとか、モールス符号を考案したのはモールスではなく、協力者のアルフレッド・ヴェイルであるなど、興味深い記述が多い。

貧しい移民たちが、電信技術を頼りにアメリカ社会の底辺から這い上がる過程。西部劇映画に登場する電信士たち。電信技術で男と対等に渡り合う女性電信士。相手が女性とは気付かぬ電信だけによるロマンス。電鍵一つで各地を流浪する渡り者の生活。南北戦争における電信士たちの活躍。待遇改善を要求する電信士たちと電信会社との壮絶な戦い。どれをとってもわくわくする物語だ。それだけに、通信技術の進歩によりモールス電信が使われなくなる終章は寂しい。

この種の本は翻訳ものが多いが、膨大な資料を日本人が集めて書き下ろしたのは嬉しい。いつの日か英訳される日も来るのでは…?面白さに引かれて一気に読んでしまった。本書を執筆くださった著者に感謝申し上げる。

(狸吉)

 

安心したがる人々/曽野綾子(小学館 本体1500円)

本書は、小説家曽野綾子のエッセイ集です。氏の事象観点は右翼的と言われることが多く、その論調を批判する人も少なくないが、私は氏の論調にその傾向に有るなど微塵も感じることはなく、氏のエッセイを読むたびに実に清清しい読後感を味わうものであります。

本書「安心したがる人々」は、その巻頭に記されている文章が本書のエキスとも云える切り口の一端を表しているので記してみます。

「誰も苦しみになど耐えたくない。順調に日々をおくりたい。しかし人生と言うものは、決してそうはいかないものなのだ。さらに皮肉な事に、人生で避けたい苦しみの中にこそ、その人間を育てる要素もある。人を創るのは幸福でもあるが、不幸でもあるのだ」

「実生活が無いと、小説は必ず空想の世界に逃げ込む。それは鉄則なのだ。しかし身近に実生活の厳しさの実感の無い暮らしと言うのも、日本人のおかれた環境が、どこか過保護で歪んでいるところから出てきているように私には思えるのである。」

例えば、「勉強しない高校生に金を出す国家」と言うタイトルのエッセイがある。最後の部分をそのまま記してみると「民主党政権下の日本国家は、眠っているかそれに近い91%もの高校生のために私達の税金を使うと言う。この結果をみて腹の立たない国民はいないだろう。親も学校で眠っている息子や娘のために、金を出す必要はない」という調子である。

この意見はまさしくその通りと思い、私も機会あるたびに言っていた私見である。しかし、氏の意見は、これだけでなく、日米中韓の四カ国の高校生が授業時間中に何をしているかと言う調査や、日頃のマナーとして「飲んだり食べたり」をマナーに乗っ取っているかなどの統計なども合わせて、総合的に意見を纏めているのは流石であり、我々の言うのとはその重みが違ってくる。

また、「賢い国民の幼い国家」と言うのがある。このエッセイは国語表現が問題になった麻生総理の時に書かれたものである。幼児教育とは、「挨拶する事、人と付き合って人間関係を知ること、人に迷惑をかけないこと、人間の命を絶たない事、盗まないこと、感謝を出来る事、本をよむこと、人生の苦悩に継続して耐える力を養うこと」であり、幼児から始める教育の大切さは、問答無用に常識的な社会の規約に従わせることだと言っている。

このことを怠ったために、レイプしてくれと言わんばかりの若い女性の服装、電車の中での化粧、ところ構わず座りこんだりたべたりする行為がはびこる。そして、麻生総理もその手の教育を受けた世代なのかもしれない、とのくだりである。

人々は、与えられることだけ求める。魂の幼児性。与える充実感を若者も覚えなければいけない。そのために、18歳で一年間の奉仕活動に全ての若者を動員して、テレビ、携帯、パソコンと無縁の協同生活をさせれば、世の中ははっきりと違ってくる。そんな事が出来る政治家は望めないから、日本は更にひ弱な国家に向かって坂道を転がり落ちるより仕方ない。とのくだりは強烈であるが、私とて全く同感であり、韓国のように国民皆兵制にして若者を育てる、戦争が良いか悪いかの問題では無い、他に若者を強くする方法が有れば別であるが、これは私の私見であるが、その結果を見ることなくこの世を去る年齢に感謝である。


(智致望

 

国民の歴史/西尾幹二(産経新聞社 1999年10月 本体1905円)


ロシアの小話にこんなのがある。レーニン生誕100年の式典を中継していたモスクワ放送に天上からマルクスが降りてきて、どうしても一言話させてくれという。しかたなくマイクを渡すと、マルクスはこう叫んだ。

「万国の労働者諸君、どうか私を許してくれ」。

1989年にベルリンの壁が崩壊した後の社会主義は色褪せて、日本の社会や教育やマスコミも宗旨変えを始めた。その動きの一つが、いわゆる「自虐史観」に代表されるそれまでの日本史の見直しである。本書は、戦後長く日本の歴史教育が、明治維新後の日本が拡大主義に走った結果、国家の敗北と東アジアに悲劇をもたらしたという、いわゆるマルクス主義歴史観の影響を強く受けてきた反省から、いわばその反論として企画された。著者はドイツ文学者、思想家であり、当時「新しい歴史教科書をつくる会」の会長だった。

約1万年続いたといわれる縄文時代から書き起こし、稲作は弥生人より前に縄文人が行なっていた、日本語はどう確立したか、魏志倭人伝は歴史資料に値しない、遣唐使廃止が中国の呪縛を離れ日本の発展につながった、鎖国は本当にあったのか、江戸・明治期の教育立国の背景、世界で最も独創的革命だった明治維新、冷戦の推移に踊らされた自民党政治など、それぞれの時代を分析した数多くの研究論文を引用しながら、著者独自の視点で日本史を再構築している。

歴史書は、一見、古色蒼然なようで、新しい史料が発見されて研究が進むたびに書き換えられる。たとえば、平安時代には死刑がなく数百年も刑死者がなかったとか、鎖国がなかったことは今や定説であり、江戸時代の寺子屋はほとんどが男女共学で、教師も3人に1人は女性だったことなどユニークな記述が目立つが、本書の意図からすれば教科書にはないエピソードも豊富である。

しかも日本の歴史としながら、世界史はモンゴル帝国から始まる、西欧の野望・地球分割計画、国際連盟、ニュルンベルク裁判など、中国やヨーロッパにもたくさんのページ数を割いて言及する。さらに、イラン、インド、エジプト、中国、ギリシャ文明後にこれら大文化圏近くに登場した新たな民族として、ゲルマン人、スラブ人、日本人、マレー人、タイ人を挙げて、日本人がかなり早い時期から世界の表舞台に登場していたことを提示していて、世界史のなかで日本の位置付けがよくわかる。

「自虐史観」へのアンチテーゼという本書の趣旨からすれば、日本の過去の行為が「遅れてきた帝国主義」、「歴史的必然」という常套句で正当化されがちだが、アメリカがフィリピンやハワイで何をしたのか、イギリスやフランスやオランダが、アフリカやインドや中国やヴェトナム、インドネシアで何をしたのか、ドイツがヨーロッパで何をしたのか、ソ連が東ヨーロッパや中央アジアで何をしたのか、中国がチベットやモンゴルや朝鮮で何をしたのかをきちんと検証して人類の正史として伝えていくためにも、日本が犯した過ちが書き漏らされてはならないだろう。


(本屋学問)
 

人情「安宅の関」/戸田弘明(論創社 2011年5月)


ノンフィクションではあるが小説を読みたくなり、本著を取り上げた。私は高校生の頃から源平の争いの中で安宅の関での「勧進帳」の場面、そして安宅の関守富樫左衛門の対応に感動したが、今回改めてこの本を読み、富樫左衛門の人物像を詳しく知ることが出来たのでその概要を紹介し、改めて私なりの感想を記してみることにする。

 この本の特徴は数頁から十数ページ毎に区分けされており、各章の書き始めには必ず其の情景の描写から始まるので、丁度歌舞伎の舞台を見ているような雰囲気になるのも本著の独特の魅力であった。

 富樫左衛門の正式名前は、富樫左衛門泰家である。若武者の頃、一人の娘萩野と急な雷雨に出会い雨宿りしたときから顔見知りとなり、その後も祭りや武芸大会で再会し、次第に親しくなってゆく。そして後に泰家と結婚し二児の母となる。

源平の戦いは1180年(治承4年)頃から始まる。平家の北陸平定が計画される頃、北国武士の泰家達は木曽義仲の挙兵に対応しようとし、平家に抵抗を示した。しかし、十万の平家の軍勢に対抗するには平野での戦いでは勝算がないので、何とか山岳に追い込む作戦を立て山道険しい倶利伽羅峠を選ぶことにした。

戦いの始まるのは早春の3月頃と読み、泰家軍は冬明け早々に出陣した。平家軍は京に兵を集結し琵琶湖を北上し始めた。そこで泰家は、作戦通り退却に当たり砦に火を放ち平家の進軍を妨げた。しかし、徐々にではあるが平家軍が越中の方向に進んできたので、ついに木曽義仲本隊が応戦することとなった。倶利伽羅峠を囲む山を越せば平家の進軍は容易になるが、要所の木曽軍は山道を抑え戦線は膠着状態になった。

 其処で義仲の智将林光明の発案を取り上げ、平家軍に対し百本矢の試合を申し入れた。現在の常識では対峙中の相手と武芸の競技をすることは考えられないが、当時の平家は直ぐにこの申し入れを受け入れた。義仲軍の弓武者は富樫太郎泰家、平家の弓武者は藤原右近定兼が選ばれた。勝負は間単には決着しなかったが、定兼が一矢を落としたところで終わった。

こうして時間稼ぎが出来たので、夜更けを待って義仲軍は夜襲を仕掛けた。倶利伽羅峠の平家軍の約6万人は殆ど谷底に突き落とされ、義仲軍の大勝利となった。平野部に残った平家の残党は北陸を離れ京都に逃げ帰ったが、此処でも平家が頼りにしていた叡山の僧兵たちが義仲にくみすると分かり、総崩れとなり福原に集まった。

更に福原も町を焼き払い、四国屋島に船を集めて集結した。倶利伽羅峠の戦いで大勝した泰家は一旦実家に戻ろうとしたが、後白河法皇の命令により四国に集結した平家残党の討伐を命じた。義仲と北国武士連合軍は数百隻の船を集めて屋島に向かったが、海戦には絶対に自信を持つ平家軍には完敗し、木曽義仲軍はばらばらになって山中に逃げ込んだ。

 泰家は偶然にも家来の甚助と一緒になり、人目をしのんで山中を郷里富樫にむけて歩き続けた。此の後平家一族は源氏の義経に追われたが。争いは源頼朝と義経に向けられ

逃げる義経と富樫太郎泰家の対面となる。

これまでは、富樫太郎泰家の生い立ちと倶利伽羅峠の戦いの結末までを述べてきたが、後半では此の戦いの後、木曽義仲軍勢が海戦に敗れた後、鎌倉の源頼朝が代わって平家討伐の主役となり、更に最後には義経がリーダーに選ばれた。ここから壇ノ浦までの戦いはすでによく知られているので、その後の義経の北国逃避行と泰家の出会いについての筋書きを述べることにしたい。

 屋島の戦いで義仲軍に大勝した平家は、四国や九州の水軍を誘い込んで勢力を取り戻そうとしていた。これを知った頼朝は源範頼に平家討伐を命じたが、意外に平家の抵抗は激しく苦戦に陥ってしまった。そこで、頼朝は急いで弟の源義経の応援を依頼した。予想通り義経の戦いぶりは目覚しく、短期間の中に平家を壇ノ浦に追い詰め、平家一門を此の地で壊滅させた。

 この大勝利に源氏一門は沸き上がったが、特に義経の大活躍に対し高い評価がなされて来たので、此の辺りから頼朝は義経に猜疑心を持ち始め、鎌倉に義経を呼ばず、むしろ取り押さえて亡き者にしようとしたのである。

華々しい勝利をしながら義経の軍勢は頼朝側に引き取られ、義経と部下の武蔵坊弁慶は仲間から脱出して放浪の旅に出かけた。目指すは藤原秀衡の治める平泉であった。

 一方、屋島の戦いで破れた木曽義仲の軍勢はばらばらとなって北陸目指して逃げ帰ったが、義仲自身は大津近くで刺客に襲われ討ち死にした。また富樫泰家も部下一人と山中をさまよいながら、北陸のふるさとを目指し歩き続け泰家の親戚にたどり着いた。其処に1年余り身を寄せている時、鎌倉から使者がやってきて、泰家に安宅の関守になるよう要請された。

それから一冬過ぎた頃。突如此の関所に山伏一行が現れた。此の山伏と泰家との問答はよく知られており、劇的であって此の本の巻末を飾っているが、泰家は山伏との対応に感動し、此の関所を通過させるシーンは最高で、「日本の真の武士道を心得た富樫太郎泰家の面目躍如たり」と拍手を送りたい。

 なお、この本の巻末には、義経一行関所を通過後の後日談として、頼朝は泰家が山伏一行を見逃したことに疑惑を持ち、泰家の妻と子供に扇を持たせ、そのおのおのに3本ずつ矢を射て扇を打ち抜く試練を泰家に命じた。結果は全部扇だけを打ち抜き、家族を守った逸話が添えられている。これも厳しい武家世界の掟であったことに感動させられた。


                        
(六甲颪)


エッセイ 2011年7月分

時空のスケール


テニスの4大大会の1つ、全仏オープンで中国の李娜が優勝した(6月5日)。これは男女を通じて、4大大会シングルスでアジア人選手初の快挙である。記者会見では「中国のテニスを世界に証明できた」と誇ったそうです。私はこういう時代が来ることを予感していましたので、やはりという思いを強くしました。

(報道によれば)中国女子選手が国際試合に出始めたのは、プロツアーの中国オープンが北京で始まった93年(女子は94年)ころからだ。99年にプロ転向の李娜は、北京五輪(08年)に向けて強化盛んだった中国テニスの興隆期の世代。「子供たちが私に続いてくれれば、中国のテニス界はもっと大きくなる」とコメントしています。

私は、仕事で中国各地を駆け巡っていた時代がありました。1986年から88年にかけてでした。北京に滞在することが一番多かったですが、休日には現地駐在員とテニスで汗を流したりして、生活環境の違う街での休日を過ごしたりしていました。

その頃は、北京市内にテニスコートはそんなに多くなく、事前に駐在員が予約してくれていましたが、いつもとなりの半分くらいのコートは、小学生と思われる子供たちがテニスに明け暮れていました。噂によれば、各地から精鋭を強化要員として寄せ集めて、英才教育をやっているとのことでした。

86年当時、中国ではまだまだテニスなんて、ごく一部の人たちしかプレーをしていませんでした。そういう時代に、国家的?に強化を図ると言う「中国らしさ」を感じたことを記憶しています。

そうした施策(戦略)が、こうして実ったと言えます。これが中国人の時間感覚です。

日本人に比べて、中国人は時空のスケールが一桁違うと言うのが、私の見方です。どっちが優れているとかいうのではありません。中国人は時間、空間の文化(感覚)が日本人のそれより「一桁」大きいと思います。仕事においても!

私が初めて北京の東西長安街(故宮前を東西に延びるメーンストリート)を歩いた時、だだっ広い道路に面して、ポツン・ポツンと石造のビル(中央官庁の建物)が建っていました。要するに空き地がめっぽう多かったです。その時には、100年先の都市計画をやっているな、と感じました。日本ではせいぜい10年先の街づくりしか考えていないです、いまでも。今になっては素晴らしい街が出来ています。あれから25年ですが、改革開放政策で100年が25年に縮まったと考えればよいのでしょう。これが中国人の空間感覚です。

やはり、歴史のある国の国民の感覚は違うと思います。尤も、歴史に足を引っ張られていることもしばしばあります。おまけに、中国の土地は国有地ですから、都市計画で「高速道路」と決まれば5年もせずに完成するんです。羨ましいとさえ思うことがあります。

国土は日本の約26倍、歴史は約2倍ですから、時空の感覚が違っても当たり前なのかもしれません。


(恵比寿っさん

備えあれば患いなし

今回の東日本大震災と原発事故で、政府や東京電力は「想定外」を連発して非難を浴びたが、「備えあれば患いなし」という言葉をこれほど身に染みて感じたことはなかったのではないか。

 岩手県のある村では、過去の津波で多くの犠牲者を出した歴史から、昭和40〜50年代に当時の村長が周囲の反対を押し切って、高さ15.5mの水門と防潮堤を建設した。今回の津波の高さは20mを超え防潮堤と水門を乗り越えたが、それでも集落が浸水する被害もなく、死亡者もいなかった。人口3,000人の村に総工費36億円は大きな負担だったが、村長は明治の大津波の高さは15mだったという言い伝えを根拠に15.5mにこだわり、県や村会議員を粘り強く説得したという。

また、ある漁港では、地震の発生と同時にほとんどの漁船がいっせいに沖を目指して港を離れ、港内での漁船の被害を最小限に食い止めた。津波のたびに大波が打ち寄せ、船が破壊されることを経験的に知っていたからだ。

宮城県の機械工場は、作業台や工具棚を低くして壁に固定するなど作業環境も地震に備えた工場レイアウトとしたため、震度7にも耐えて1週間後には生産を再開できたそうだ。完成して1年の新鋭工場とはいえ、地震対策の成果が見事に実証されたケースといえる。

福島第一原子力発電所の深刻な事態に比べて、より震源に近かった東北電力女川原子力発電所は、今回の大震災でも安全に緊急停止した。過去の三陸地震から津波災害を想定して高台に建設したこと、電源喪失回避への積極的な対策などが致命的被害を防いだようである。

実は原子力安全委員会は1993年に、長時間の全電源喪失が炉心損傷を招くという報告書を出しながら自然災害による影響までは検討せず、国や東京電力が多重安全を根拠に「考慮の必要なし」と結論付けた安全設計審査指針を追認していたという。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。自然災害を“天災”とみるか“人災”とするかは、こうした普段からの防災意識にあるのかもしれない。とくに原発事故の場合、深刻な事故が起これば致命的になることを認識しながら、結局は対策を後回しにしてきた東京電力と東北電力の姿勢の違いが、まさに明暗を分ける結果になった。

帝国ホテル本館が完成して、落成記念パーティ準備のまさにそのときに関東大震災は起こったが、周辺の建物が倒壊したにもかかわらず小部屋をつなぐ連結柔構造が建物全体を支え、本館はほとんど無傷だった。その後、弟子からの手紙で状況を知った設計者のライトは狂喜したという。

今回の大震災の被災状況を詳細に調査し、考察し、教訓とすることはもちろん重要である。しかし、結果的に壊れなかったために注目されないが、この震災に見事に耐えた企業や施設の災害対策を紹介することも、同じように大切なことではないか。

「備えあれば患いなし」 わかってはいてもなかなかできないことではある。

(本屋学問)

「ほつまつたえ」に見る神武天皇のお人柄

「神武天皇」は、自分に負わされた使命感により、最後まで諦めることなく、困難に打ち勝っていく行動力に、いささか感動しました。しかし、一方では奥さんには頭が上がらなかった様子に親しみを覚えたので紹介したいと思った次第です。

九州で政治を執っていた父の遺言を受けるために、「やまと」にいた「たけひと」(後の神武天皇)は九州へ行きます。

父の亡き後を継いで「たけひと」は九州でしばらく政治を執りますが、「やまと」が乱れているので早く帰って治めて下さいと云うはやり歌が「たけひと」の耳に伝わります。

「やまと」に戻ることを決意した「たけひと」は、途中、宇佐、吉備、などを経由して浪速から生駒越えを試みますが敵の抵抗に遭い、作戦を変え、海から紀伊半島を大きく廻り熊野から攻め込むことにします。

同行していた兄たちは敵の矢で射られたり、台風に巻き込まれて海に投げ出されて熊野に上陸する前に3人とも亡くなってしまいます。決死の思いを乗り越えて、敵と相対することになります。

そして、天照神の印した「神おしで」を両方が持っており、敵と思っていたのが実は身内同士であったことを知ります。「たけひと」こそが正統な後を継ぐ人であることが認められます。

さて、ここからが、本題です。

晴れて天下に知らしめた神武天皇は、新しいお妃に「たたらいそすず姫」を迎えます。この「いそすず姫」は右大臣の妹にあたり、神武天皇はどうも頭が上がらなかったようです。

既に九州でお妃にされていた「あびらつ姫」は、お年は召され従順であったように見受けます。一人皇子「たぎしみこ」がいました。


神武天皇は、この「いそすず姫」との間に、子宝が授からからなかったためかどうか分かりませんが、若い「いすきより姫」を3番目の妃に迎い入れようとします。このときは、世継ぎ皇子を途絶えさせないために、12人までお妃を持つことが出来ていたので、当然の行動と思われます。

しかし、内妃「いそすず姫」に咎められ、迎い入れることを諦めます。かなり実権を持っていたように見えます。がんばられて、二人の皇子をもうけ、取りあえず安泰になります。

妻に子供が出来ない時には、妾を置いて子種を残しなさい。という記述もあるようですが、許されなかったようです。

結局、この「いすきより姫」は、殿中に入ることが許されませんでした。神武天皇がお忍びで姫の館にお出かけになり、そこで交わっておられました。姫の名前も「ゆり姫」と変えていました。

そんな中、神武天皇の先妻の長男「たぎしみこ」が、この「ゆり姫」(二十才前)に一目惚れしてしまいます。一騒動ありますが、このままにしておくわけに居かないと心を痛めていたことが伺い知れます。

「ゆり姫」が息子の「たぎしみこ」にガツンと貴方の入り込む隙はないと拒否したので事なきを得ました。もし、そうでなかったとしたら、一人の女性を父と息子で取り合いするわけにもいかず、父が息子に譲ることになっていたのでしょうか。許されなかったと思います。



タイミング良く、越後の謀反を治めて帰ってきた高倉下(後の弥彦神)に、神武天皇は褒美として、この「ゆり姫」を、酒の肴に賜いましたと結んでいます。

今では、セクハラで訴えられてしまいそうですが、当時としては粋な計らいであったと思います。お手付きではありましたが、多分単身者であった70才過ぎの高倉下にとっても、うれしかったと思います。

神武天皇もほっとされたことと思いました。

余談ですが、高倉下と「ゆり姫」との間に子供ができ、その子孫の「よそたり姫」が人皇5代の孝昭天皇の中宮になっています。

神武天皇の世継ぎは「いそすず姫」が生んだ二人の皇子の弟「かぬがわみみ」の方で、綏靖天皇になります。故あって「たぎしみこ」は消されてしまいます。

(ジョンレノ・ホツマ)

ユッケ禁止に付いて思う事

ドイツには、メットと言うパンの上に生豚肉のミンチとたまねぎの微塵切りを載せたものが街中の屋台で売っていて、日本では見かけないブタの生肉であります。これを昼食時に食べておいしかった事を記憶しています。

生肉料理といえば、インドの料理だったと思いますが、タルタルステーキと言って生の牛肉をミンチにして香辛料と混ぜてそのまま食すものがあります、今でもホテルなどの一流レストランで食すことが出来ます。

そして、かのユッケであります。韓国で仕事をした当時(20年程前)に現地でよく食べました。私は本来生肉が好きですが、韓国の料理店で食すのは、「気持ち悪い」との思いが先行してか、格別においしかったとの思いは有りませんでした。それが、日本の高級店で、安心して食べると、格別においしかった事が記憶にあります。当時は、韓国は別にして、日本では今のように大衆的なたべものではなかったように記憶していまして、最近のように安さを売りにする様になってから、意識的に食すのを敬遠していました。

食文化も地域によって色々ですから、「良い悪い」を他人が決め付けることではありません、刺身などとんでもないと思う人は地球上には圧倒的に多いのです。それをお上が「駄目」と決め付けるのですから、この国は変です。それだけ大衆がバカなのか、お上が大衆をバカにしているのか、余計なお節介と言うものです。

そもそも、食の安全を管理するにはそれ相当の費用が掛かります、安い料金で美味しいものを食べるなら自己責任でどうぞと言えば如何でしょう。何から何までお上の責任にするから何でも規制される。規制するとヤミが横行する、それなら自己責任という事を主張した方が合理的と思いませんか。高いカネを払って食べたい人まで規制するのは「やりすぎ」と思うのであります。そうすれば、大衆もそれ程バカではないです。自己防衛を自分で考えるようになり、選挙の投票率も上がると言うものであります。何でもお上の責任、何でも税金、その税金は払いたくない、そろそろ改めないと大変な事になります、私は既に「ツー・レイト」と思うのですが如何でしょう。

(致智望)