第12回「ノホホンの会」報告

2012年5月17日(木)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、
参加者:六甲颪、致智望、山勘、ジョンレノ・ホツマ、恵比寿っさん、本屋学問)

狸吉さんは急用で欠席でしたが、今回も書感、エッセイ含めて充実した会になりました。せっせと年金を積み立てた人の年金よりも、生活保護を受ける人のほうが支給額が多いという、絶対におかしい日本の社会保障制度、無能すぎる政治家と役人、外交ができない外務省、あまりにも質が落ちてしまった日本国民、成長しないうちに破綻するかもしれない中国経済…。今回も鋭い切口のエッセイ、書感が投稿されました。

日本の進むべき道はまだ残されているのでしょうか。立派だった先人をどうしても引き合いに出さざるを得ない情けない現実を、今日の為政者や官僚たちは少しでも知ってほしいものです。そのためにも、電車や飛行機にはどうぞ自腹で乗りなさい。

(今月の書感)

「闘戦経」(山勘)、「中国経済 あやうい本質」(致智望)、「遠い波濤」(本屋学問)、「米国製エリートは本当にすごいのか?」(恵比寿っさん)


(今月のネットエッセイ)

「老いの繰り言」(山勘)、「おおなむち」(ジョンレノ・ホツマ)、「セキセイ・インコの記憶力は凄い」(六甲颪)

 
(事務局)

忘れられた新いろは歌の紹介-2012年2月六甲颪さんのネットエッセイ「後世に残したい歌」より


鳥なく声す 夢覚ませ 見よ明け渡る 東を 空色映えて 沖津へに 帆船群れいぬ 靄のうち



明治36年、「萬朝報」という新聞社が、「新いろは」歌を一般公募したところ、この難問を見事突破して新しい歌が選ばれた。1等の作者は埼玉の坂本百太郎という人で、見事に47文字も「ん」も読み込んでおり、歌詞の内容も朝の情景を巧みに表現している優れたものである。



書感 2012年5月分

闘戦経/家村 和幸(並木書房 1,600円+税)


闘戦経は、日本古来の「武」と「和」の精神を基本として纏められた日本最古の兵法書だ。闘戦経は戦いに関する経であり、経とは聖者の書、教えである。闘戦経を貫く基本理念は「文武一元論」だ。文と武は不離一体のもので、将兵は智と勇を備えていなければならず、国家指導者も軍事と政治の両面に長けていなければならないと本書はいう。そこが文を優位に置き武を下位におく古代中国の思想や「孫子」との違いでもある。

 戦いの理論として知られる「孫子」は、兵は「詭道」なりと教える。戦いの根本とする詭道とは、戦いに勝つためには何でもありの権謀術数「詭譎」を奨励するものである。これに対して闘戦経の基本理念は「真鋭」である。真鋭とは、真心の力を持つ鋭さである。

 闘戦経は、朝廷の書物を管理していた大江家の35代大江匡房(1041~1111)が著した書だといわれる。闘戦経は第1章「天地に先立つ神武」に始まり、第53章「用兵の神妙」まで全53章を解説し、次いで、孫子と闘戦経の教えを表裏一体として学び、実践した事例として楠公こと楠木正成を挙げる。楠公の事跡を通して闘戦経の世界を覗こう。

楠公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。倒幕で挙兵した後醍醐天皇に呼応して立ち、足利尊氏や新田義貞らと共に南朝軍として戦い、建武の新政の立役者となった。しかし、足利尊氏の反抗後は北朝軍との戦いで、天皇や戦知らずの公卿の介入で不本意な策戦を強いられながら奮戦したがついに敗れ、湊川で自害した。時に楠公43歳、延元元年(1336)、楠公と一族郎党は「七度まで生き返り朝敵を滅ばす」誓いを立てて自害した。

 挙兵から戦死するまでの5年間、楠公はそれまで深く修養してきた孫子と闘戦経の教えを開花させ、南北朝動乱のただ中で見事な戦いを展開し、「護国の神」として名を残した。

 楠公の、京都近郊における山地戦、市街戦、陣地攻防を始め、とりわけ有名な千早城での奇抜な戦法などは、孫子の「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」であり、欺瞞や陽動作戦は「兵は詭道なり」の教えだとする。

 しかし孫子は「君命に受けざるあり」と教えるが楠公はこれを取らず、闘戦経の「死と生とを弁ぜず」に従い「君命は山よりも重し」を信条とし、唯々として死地にも赴く。

 敵を恐れず死を恐れず戦った湊川では、味方の新田軍を京の守りに退却させ、陸路3万、海路2万で押し寄せる敵軍を、わずか700騎で迎え撃った。ここには闘戦経の「兵の道にある者はよく戦うのみ」「四体未だ破れずして心まず衰ふるは、天地の則に非ざるなり」「小虫の毒有るは天の性か。小勢を以て大敵を討つ者も亦た然るか」という教えがある。

 中には「鼓頭に仁義なく刃先に常理なし」などのすさまじい教えもある。鼓頭すなわち鼓で戦いが始まったら仁義無用、刃を交えたら常の道理や理屈などないと言うのだ。先の千早城の戦いでは、敵軍の頭上に材木、落石、熱湯、糞尿などを見舞い、兵糧責めで遠巻きにすれば藁人形などの奇策で翻弄した。この教えは、孫子の「水に常形なく兵に常勢なし」に通じるものがある。

 本書は、楠公の精神が戦国時代の乱世を経て、江戸時代以降の武士道精神として生き続け、幕末の国家的危機に立ち上がった勤王の志士等に脈々と引き継がれて、やがて維新回天の大業へと繋がっていったという。

さらに本書は、戦いというものを常に考え、備えておかないと国が滅びる。そこに武士道の価値があり、その精神の根底をなすものは「孫子」ではなく「闘戦経」だという。

(山勘 2012年5月4日)

 
中国経済 あやうい本質/浜矩子(集英社新書 700円)

 著者の浜矩子は、中国経済の専門家では無い。氏は、同志社大学大学院教授であり、マクロ経済分析、国際経済の専門家であります。

その浜氏が中国経済を語るわけですから、当然論調の切り口は世界経済の中の中国と言う事であり、何と言ってもこの人の論調が、難しい理論を判り易く表現する事にあり、それが浜氏の著書が売れる原点でもあると思う。

本書に於いても中国の経済を語る前提として、現在のグローバル経済の実態解説から入って行くと言うものであり、当然その論調は解りやすくグローバリズム下の世界経済の現状分析などは、私にとって中国問題と並び、大いに勉強になり、望外の余禄であった。

本書で私なりに理解したことは、資本主義の原点となる投資に付いてであった。先進国は、既に投資の対象となるインフラや企業の成長に必要なアイテムが先進国相互間、自国にも存在しない情況に至り、その結果としてデフレ現象の蔓延となっている。各国政府は、景気対策のために、一見無駄使いとも言えるインフラ投資まで行っているが、それでも余ったカネが発展途上国に向かっており、それが、中国の様な大人に成り切っていない経済社会に向けて怒涛のように流れている。

その結果、各国間の為替問題を引き起こし、それがデフォルト問題にまで発展しかねないと言うものであり、それでもなお先進国には、需要にたいする資金の供給力が余っている事態である。本書では、実例を揚げてこの現象を具体的に説明している、浜氏の結論として、資本主義の限界とまで言っていることに強いインパクトを感じるものであった。

米国は、中国に対し元の切り上げをしきりに迫っている。確かに、私でも旅行をしていて、或いは仕事関係においてもその点を強く感じるのである。それでも、中国政府は頑なに元安政策を変えていない。このあたりの事情も先進国のカネ余りと為替の関係、自国の金利政策の問題、金利政策とバブルの発生などが微妙に絡み、中国政府は矛盾だらけの政策をとらざるを得ないと浜氏は言っている。

この矛盾に乗じて、各国の企業が漁夫の利を得ていると言う、如何に利口に立ち回るか、その環境のなかで日本企業も利益を得ていると言われている。

浜氏が論じるに、今の情況は「思春期」から「大人」へ向かう中進国経済のジレンマと言うものであり、どんどん疾走を続けていればよかった段階は次第に終わりにさしかかっている。中国もおとなの経済としてのバランスのとれた姿を実現していかなければならない。これからが、本格的な力量を問われる今のこの時期を理解すべきと言うことであろう。

本書で浜氏は、安直な「処すべき」論を述べるに至っていません、我々に原理原則を丁寧に説明し「有るべき」論を促すのが本書の内容でありました。

グローバリズム下のカネの流れなど、素人の私には大いに役立つものを得た、後読の充実した書であった。


(致智望 2012年5月9日)

遠い波濤 土佐自由民権家 馬場辰猪アメリカに死す/永国淳哉(青英舎 定価1,500円 1984年10月)

「土佐の生んだ自由民権家、馬場辰猪は死に場所にアメリカを選んだ…」で始まる本書は、馬場がロンドン留学やアメリカでの亡命生活を通じて克明に書き残した英文日記を基に、実際に彼が旅し、生活をした現地を訪れてその足跡をたどり、明治初期の自由民権運動に生涯を捧げた1人の思想家の、短くも熱き半生を追った格調の高いドキュメントである。

馬場辰猪(ばば・たつい)といってもその名を知る人は少ないが、英文学者、翻訳家で慶応義塾大学教授だった馬場孤蝶(こちょう)の兄といえば、ある程度のイメージが浮かぶだろうか。

坂本竜馬誕生の15年後、同じ土佐藩の士族に生まれ、藩留学生として江戸・長崎で福澤諭吉やフルベッキに学び、1870年と75年の2回、岩倉使節団にも加わってイギリスに留学して蒸気機関や法律を学んだ。1878年に帰国するまで『日本語文典』、『日本における英国人』、『日英条約論』などを英文で出版し、また『古事記』を英訳したことでも知られている。

国語英語化論を唱えた森有礼に対して辰猪は『日本語文典』で、「それをしたら庶民が民主主義から遠ざかってしまう。富裕層は多くの時間を英語の勉強に割けるが、下層階級はそうはいかない。ローマ帝国の貴族と平民のように、全国民に関係する重要問題から平民は締め出される」と反論した。ドイツ留学中の森鷗外も「日本に山田美妙の文学があるのになぜ外国語を導入するのか。不思議だ」と読売新聞に書き、辰猪側に軍配を上げた。革命前のロシアでも、貴族はフランス語、平民はロシア語が日常の会話だった。辰猪は民主主義の何たるかを、マルクスやレーニン以上に正しく理解していたのかもしれない。

また、『日本における英国人』では、イギリスから一時帰国して見聞したイギリス人についてこう書いている。「彼らは文明国民にふさわしい態度や行動の見本を示すためにきたというが、無知な日本人を欺き、不当な利益を得ることに平気だ。だから、彼らと取引する日本人のなかには自分たちも不正を働くことを考えるので、奇妙なことに文明国民と多く接触する日本人は不正直になり、一般の日本人よりはるかに悪賢いことが周知の事実になっている。もし、彼らが文明国民であるというなら、すべてを自分たちの基準で判断せず、他の国民が置かれている異なった条件や環境に対しても正当な考慮を払うべきだ」。

辰猪は帰国後、自由民権を唱えて同郷の板垣退助らと自由党を組織して藩閥政府の言論弾圧と戦うが、党首の板垣が国費で外遊するなどしたことから袂を分かち、次第に過激な反政府運動に身を投じ、爆発物取締規制違反で半年以上の投獄生活も味わう。

辰猪のこのような激しい政治運動のなかで、本書は秘められたエピソードも紹介している。同じ土佐の政商、岩崎弥太郎の娘、春路とのロマンスである。写真で見る辰猪は、確かに美男である。フランス人家庭教師に育てられ、一時は辰猪との縁談話もあったという春路は、辰猪が獄中にあった間に、後に首相になる加藤高明と結婚してしまう。反政府運動に徹する自分の使命を考え、自ら身を引いたともいわれる辰猪は、春路の気持を正しく理解したのか、1886年6月、釈放されて10日後にアメリカに亡命した。

辰猪は渡米後も各地で、得意の英語を駆使していっそう精力的に講演会や雑誌、新聞で明治政府批判を続けた。そのときの彼のいでたちは、腰に刀、手には弓という鎧姿で、世界のどこの属国でもない日本という国家の存在を、侍の武具といういかにも彼らしい日本文化をもって示した。その辰猪を追い、日本各地の無名の民権活動家たちが海を渡った。1888年、カリフォルニア州オークランドに日本人愛国有志同盟が結成されたという。

1888年11月1日、馬場辰猪は持病の結核で38年の生涯をフィラデルフィアで終えるが、その2年後に『日英条約論』は和訳されて国内で条約改正論義が起こり、ついに1894年には日英通商条約は改正され、治外法権が解消された。著者は、今日の教科書にその立役者として当時の外務大臣、陸奥宗光の名だけ取り上げられているのは皮肉だと書いているが、まさにそのとおりである。真の歴史書には、このように客観的事実を精査して記録するという重要な役割がある。

辰猪の堂々とした墓は、現在もペンシルベニア大学隣の共同墓地に静かにたたずむ。著者らが苦心して発見したものだ。埋葬願書の申請人は岩崎久弥、弥太郎の長男で春路の兄、エリザベス・サンダースホームの創設者、沢田美喜の父親といったほうがわかりやすいかもしれない。弟の胡蝶は、出獄直後の兄のアメリカ行きを「死ぬために出かけたようなものだ。もう少し日本にいて保養していったほうがよかったことは、誰にもわかっていた。そうすれば、もう少し命を延ばし得たろうかと思われる」と書いている。

辰猪がペンシルベニア大学付属病院に入院したとき、久弥はちょうど同大学に留学中で、何度も彼の病床を見舞ったという。墓石建立のことといい、祖国を脱し、亡命先でも反政府活動を続けた孤独な一運動家への遇しかたとしては異例である。辰猪の“センチメンタルジャーニー”と考えた、岩崎家のせめてもの配慮だったのだろうか。

辰猪は他にも、監獄近代化論や安楽死論、天賦人権論など革新的な論文を発表した。本書の巻末には、福澤諭吉による辰猪への弔文と、孤蝶訳による辰猪の英文日記が収録されているが、福澤がイギリス留学中の辰猪に送った「日本の形勢実に困難なり。幾重にも祈る所は、身体を健康にし、精神を豁如(かつじょ)ならしめ、あくまで御勉強の上、御帰国、我ネーションのデスチニーを御担当なされたく…」という手紙の文面からも、彼が辰猪をいかに高く評価し、新国家建設の担い手として大きな夢を託していたことがわかる。

「序」で國広正雄氏が、馬場辰猪も著者の筆述を得てもって瞑すべきであろうと書いているが、出版の役割の1つは、このように歴史の闇に忘れ去られた記憶や伝承に新しい光を当て、可能な限り検証を加えて事実として残していくことである。そして私たちには、馬場辰猪の思想と業績を、長く後世に伝えていく責務がある。


(本屋学問 2012年5月10日)

米国製エリートは本当にすごいのか?/佐々木紀彦(東洋経済新報社 2011年7月21日本体1,500円)

(文中敬称略)

1979年北九州市生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒業

東洋経済新報社で自動車、IT業界などを担当。

07年9月より休職し、スタンフォード大学大学院で修士号取得

(国際政治経済専攻)

09年7月より復職し「週刊東洋経済」編集部所属。

「30歳の逆襲」「非ネイティブの英語術」「世界VS中国」「2020年の世界と日本」「ストーリーで戦略を作ろう」「グローバルエリートを育成せよ」などの編集を担当。



はじめに なぜ今、米国製エリートに注目するのか

第1章 米国の一流大学は本当にすごいのか?

第2章 世界から集うエリート学生の実態

第3章 経済・ビジネス─資本主義への愛と盲信

第4章 歴史─歴史が浅いからこそ、歴史にこだわる

第5章 国際政治・インテリジェンス─世界一視野の広い引きこもり

第6章 日本人エリートの未来

おわりに 現場にも戦略にも強い、日本オリジナルのエリートを

内容: 東日本大震災では、失意のどん底でも取り乱さない被災者や、寝食を忘れて救助に当たる自衛隊員が世界で賞賛されたが、危機に右往左往する総理大臣や肝心なところで病床に伏せる東電社長は世界中から嘲笑された。現場の優秀さ勇敢さが目立つほど、際立つエリートたちの質の低さ。日本はなぜこうもリーダーに恵まれないのか。英国や米国に比べて人間としての知徳に差はないのに、なぜ指導者のクオリティが違うのは「エリート育成システム」にあると著者は言う。

最高の教材は、米国のエリート教育。米国の一流大学は、エリート教育機関として世界中から俊英をひきつけている。本書で、著者が言いたいのは①米国の一流大学で行われているエリート教育とはどのようなものか、②その教育システムとそれが生み出す学生はどのような強みと弱みがあるか、③日本人がそこから何を学ぶべきで、何を学ぶべきでないか、を示すことにある。

第1章では、世界一と言われる米国のすごいところと見かけ倒しのところを教育面、経営面から読み解き、第2章では、エリート学生の生態を、その思考スタイルや就職活動のトレンドから探り、第3章~5章では、日本がとりわけ弱いと思われる分野に特化して米国エリートの教育スタイル、思考法を分析している。

第6章では、これからの日本に必要なエリート、①良質な知識と情報を入手する力、②頭とセンスの良さ=知識・情報を組み合わせて、論理的かつクリエイティブにまとめる力、③対話のスキル=自分の意見やアウトプットを、他者との対話を通じて磨いていく力、を併せ持つ必要があるとしている。



書感:著者が「おわりに」で述べている日本の将来について、「短期的には悲観、中長期的には希望を持つ」というのは、歴史は循環する、という考え方です。繰り返しではないが数十年周期で循環すると言う考えで、私も同感です。

 本書にも記載があるが、明治維新の≒40年後、日露戦争に勝利してその≒40年後には敗戦で破滅。ここから瞬く間に国を立てなおし、≒40年後には日本経済は頂点(プラザ合意85年)に。90年にはバブルが崩壊し今は(失われた20年を含めて)下り坂の真っただ中で25年まで下り坂とも言われている。

 これから日本はどん底まで行き、そこから(早くて10年代後半、遅くとも20年代前半から)反転に転じるとも見ています。その上昇サイクルを如何に強いモノに出来るか、それはひとえにリーダーの手腕にかかっていると。日本は歴史的に一握りのエリートの優秀さではなく、全国民の平均レベルの高さによって支えられてきたが、歴史の大きな転換点では、どうしても強力なリーダーが必要になる。

 すなわち、いくら現場が優秀でも現場には「戦略の大転換」は出来ないから。だからと言って米国のサルまねをすれば二流の米国になるだけ。現場にも戦略にも強い、バランスの良い愛国心をもった日本オリジナルなエリートが得られるか否かで、日本の命運が決まる、と。

今まで、米国一流大学のエリート教育の実態やそこで学ぶ学生の質や考え方を著した書籍に会えて来なかった私は、この本に飛びつきました。この著書は、米国流にかぶれることもなく、かなり冷静で内容も妥当なものとの印象を受けました。


(恵比寿っさん 2012年5月.17日)


エッセイ 2012年3月分

老いの繰り言「年金制度」



 年金暮らしの高齢者が、なんとなく肩身の狭い思いをさせられる時代になった。ヤレ高齢者の年金が多すぎる。高齢者の生活を若者や現役世代が背負っている。いずれ高齢者一人を現役一人が支える“肩車”時代が来る。だから高齢者の年金をカットすべきだ。といった具合にかまびすしい。

 確かに元公務員の高齢者などで、目を剥くほどの高額年金をもらっている人もいるが、それはごく少数の人達だ。大半の年金受給者は生活費を補うのが精一杯だ。国民年金などは、長い年月まじめに働いて税金や掛け金を納めてきて、そのあげくに生活保護費の半分にも満たない低額の年金を受け取っているのが実態だ。

 政府はいま、財政破綻で社会保障費を賄えないとして、社会保障と増税の一体改革を唱えている。しかし民主党政権は浪費を続けた。マニフェストはほとんど実現不可能だ。埋蔵金から17兆円ほどひねり出すと言ったがこれも2兆円ほどで万歳だ。したがって、財政を穴埋めしたり、社会保障費を支えるための増税は避けられない状況になってきた。

 とはいえ、安易な増税や“年金いじめ”は困る。年金は社会保障費の中心を占めるが、年金受給年齢に達した人、年金暮らしをしている人には、約束の年金を生涯保障するというのが国家としての責務であろう。支給水準の切り下げなどあってはならないことだ。

 年金改革をやるなら、極端にいえば、年金制度の改変は年金制度の入り口で、掛け金を払い始める年齢層に対して、新しい制度と支給水準を呈示して納得を得るのがスジではないか。それでこそひと頃の謳い文句「百年安心」の年金制度になるというものだろう。

さらなる問題は、若者が将来年金を受け取れるかどうか分からないからと、年金制度を批判し年金加入を嫌がる風潮が強まっていることだ。こうした年金や社会保障制度の義務を忌避する若者が、将来、生活保護受給者の増大につながる恐れがないとは言い切れまい。

昔は、というよりつい2~30年前までは、年老いた親の生活はまるごと子が面倒を見るというのが当たり前だった。育ててもらった親の面倒を見るのは当たり前、離れて暮らす親に“仕送り”するなどもよくある話で、親孝行の精神があった。ところが今はそうした精神が消滅して、親の面倒は国の社会保障にまかせ、将来、自分の年金をもらえるかどうかだけを心配する情けない時代になった。

そのことを若者や現役世代に考えてもらいたい。直接、親の生活の面倒を見ないなら、社会全体で、現役世代の手で高齢者の面倒を見るという現在の社会保障制度を肯定し支持すべきではないか。たとえ“肩車”時代になってもその基本思想を持って社会保障制度を維持する方法を工夫すべきであろう。

といった理屈を堂々と強烈に主張していいはずなのに、これは「老いの繰り言」です、などと卑屈な物言いになる情けない世の中になってきたようだ。


 (山勘 2012年4月)



ほつまエッセイ/「おおなむち」



 以前の事ですが、日本海側の山陰地方と津軽地方に同じ方言があると指摘されていたことを思い出しました。古代の人間がそんな遠くの距離を行き来することはあり得ないという前提で、いろいろと推理されていたような内容でした。

 今、私は「ほつまつたゑ」の10綾(章)を解読中ですが、その中に「おおなむち」という方が出雲から津軽へ追放される場面がありました。180人もの人が一緒に移動したと考えられ、このことが遠く離れた二つの場所で同じ言葉使いが残ったと納得しました。

 「おおなむち」とは如何なる人物であったのか。なぜ、追放されることになったのか。当時の背景を踏まえて、私の理解できる範囲で追って見たいと思います。

1. すず歴25年93枝の年に葦原中国では、橘の木が枯れ、占なったら、出雲で謀反があると出た。(10-1)

2. 状況視察に検察官を出雲へ派遣、国が満ち足りて道理が隠れてしまっていると報告を受ける。(10-2)

3. 出雲を糺すため「ほひの命」を派遣するも、出雲に(へつら)()びて3年経ても帰らず。(10-5)

  「ほひの命」は天照神と「もちこ」妃とのあいだの子

4. 次に「ほひの命」の息子の「おおせいい・みくまの」を派遣するも父の言いなりで帰らず。(10-6)

5. 次に「あめわかひこ」に弓と羽羽矢を賜い、派遣させた。しかし、8年経っても帰らず。(10-7)

逆に、出雲の「おおなむち」の娘の「たかてる姫」を娶とり、事もあろうに葦原中国を乗っ取ろうと寝返った。

6. 隠密を派遣したところ、隠密は「あめわかひこ」の羽羽矢で殺されてしまう。(10-10)

7. 「たかみむすび」が咎めの矢で「あめわかひこ」を射り殺す。(10-12)

8. 出雲征伐(かしまたち)に「たけみかづち」と「ふつぬし」を派遣。(10-24~26)

9. 「おおなむち」は経緯が分からず、宮中から帰国していた息子の「ことしろぬし」に使いを走らせて確認する。(10-27)

「おおなむち」は何も悪いことをしているという認識はなかったと思われます。本家より分家の方が栄えてしまったことが発端のようです。

10. 息子の「ことしろぬし」は、「みほさき」で鯛釣りを楽しんでおり、えびす顔で私は清く正しく美しいです。こと、此処に及んでは、釣り上げられた鯛と同じです。あがいてもどうしようも出来ないことです。駆けあって負けた訳です。父が出雲を去るのであえば私も国を去ります。と言いました。この場面が恵比須様が鯛を釣り上げている姿になります。(10-29)

11. 「おおなむち」のもう一人の息子「たけみなかた」は、出雲征伐に来た二人を阻止しようと力較べを挑んだが「たけみかづち」の怪力に驚き、諏訪まで逃げることになります。(10-31)

12. 「おおなむち」は忠誠を誓い「くさなぎ」の矛を置いていきました。(10-34)

13. 「たかみむすび」は「おおなむち」に津軽の阿曽部の「あかる宮」(岩手山神社)を賜う。(10-39)

14. 「おおなむち」は「つかる・うもとの神」(東日隅大元神)となり、神上がりしました。(10-40)

15. 「おおなむち」が去った出雲には、「ほひの命」を、元の杵築宮(きつきのみや)(現出雲大社)の初代祭司に定めました。(10-40)

「おおなむち」は、実名「くしきね」と言い、「そさのお」と「いなだ姫」の間に出来た子供です。後に「大国主命」・「大国魂命」とか「大黒さん」と呼ばれた方と同一人物です。

天照神は「ものぬし」(初代大物主)に取り立てています。「すくなひこな」と共に日本全国を水田開発や養蚕に努めた経緯があり、「したてる姫」から「穂虫掃い」を習得して、その結果、豊作になり、12万3680人もの民に2俵ずつの米俵を配給出来、更に備蓄米も倉に満ちていたとあります。まさに、大黒様と慕われた様子が手に取るように分かります。

なお、「たけみかづち」は鹿島神、「ふつぬし」は香取神の神部を賜わり、「たけみなかた」は諏訪大社の祭神になります。

(ジョンレノほつま 2012年5月12日)

「セキセイ・インコの記憶力は凄い」



ゴールデンウイークの頃の新聞記事によると、東京近郊に住む主婦がセキセイ・インコを飼っていたが、其の鳥籠を清掃中に籠の出口からすらっとインコが逃げ出してしまった。「あつ!いけない」と思ったがもう遅い。インコはどこかに姿を消してしまった。

一度逃げ出した飼い鳥は元に戻ることはないと言われている。鳥を逃がした主婦もがっかりし、友人や親戚に電話で尋ねてみたが行方はさっぱり分からないのであきらめていた。

逃げたセキセイ・インコはどこかの鳥仲間を巡り飛び回っていたが、最終的には警察に引き取られ保護されることになったらしい。ある晩、警官が仕事で書類をチェックしていると、コノセキセイ・インコが何かぶつぶつとしゃべっているのに気がついた。そこでよく聞いてみると例えば

「セタガヤク シモウマ イッチョウメ 3ノ5」

と聞こえるではないか。驚いた警官はメモに書き込み早速調べて電話をして見たところ。何と飼い主の家であることの間違いなかった。

セキセイ・インコはオーストラリア原産の野鳥の特性を改善し飼い鳥として普及したとされるが、特徴は人間や鳥仲間の言葉をよく覚えることはよく知られている。

「そんな鳥の記憶なんてたいしたものではない。いわゆるオウム返しの丸暗記で内容は全く分かってないんだ」というが、鳥の世界でもお互いの会話もやるし他の動物の鳴き声も理解し、且つ教えれば飼い主の住所、名前、電話番号も記憶できるとされている。ましてインコの全長は人間の1/10以下でありながら数年前に教えた住所を性格に記憶できる頭脳を持っているのは驚くべきことである。大きな頭を持ちながら数年前の友人の名前や訪問先の住所の記憶が怪しくなっている私の頭脳はセキセイ・インコにも劣るといわれても仕方がない。

(六甲颪 2012年5月13日)