第19回「ノホホンの会」報告

2013年1月16日(水)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、高幡童子、本屋学問)

六甲颪さんが急な用事で欠席された以外は、皆さん元気に新年の初顔合わせとなりました。今年も知性と教養溢れる熱いバトルを展開したいと思います。書感、ネットエッセイとも、読みたい、知りたい、好奇心に満ちた素材が満載で、皆さんの興味と関心の広さを物語っています。

 日本社会はどうも全体にレベルが下がってしまった。世の中がこれだけおかしくなると、一度すべてリセットしてやり直したほうがという意見も出ました。初期故障にしては多すぎる最新鋭機ボーイング787のトラブル、携帯電話ネットワークのコンピュータ故障…。ブラックボックス化したシステムの怖さを実感する今日この頃ですが、お互いに書感やエッセイを語り合いながら、心和む時間を共有できる大切さをじっくりと味わいたいと思います。

 会の後は、恵比寿っさんのご尽力で近くの居酒屋で恒例の新年会となりました。焼酎にプレミアムビール、刺身におでん、薩摩揚げ…。酒も肴もベリ-グッド!でした。 またやりましょう。

(今月の書感)
「われに明治の父ありき」(山勘)/「北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言」(恵比寿っさん)/「よりぬきサザエさん」(高幡童子)/「狼がやってきた日」(本屋学問)/「田宮模型の仕事」(狸吉)

(今月のネットエッセイ)
「いま」を生きる(山勘)/「夏(か)の国の西王母の記載が『ホツマツタヱ』に!」(ジョンレノ・ホツマ)/「行きつけの理髪店」(恵比寿っさん)/「日本ムラ」(致智望)

(事務局)

書感 2013年1月分

われに明治の父ありき/邑井 操著・川村真二編(日本経済新聞出版社 本体1,700円)


著者邑井操(本名川村義太郎)は明治45年生まれ。平成8年、84歳で没した。編者川村真二は邑井の次男である。

本書は、邑井がその父増太郎との思い出をつづった昭和59年刊「父親は背中で語れ」(ダイヤモンド社刊)をもとに、編者川村が再編集したもの。再編集の目玉は、日中戦争当時、出征した息子とこれを案ずる父親との手紙229通の中から相当数を抜粋して記録したこと。

本書には「現代人がどこかに置き忘れてきた古き良き日本の香り」がある。政治好きで剛毅な父増太郎と文学好きで繊細な息子義太郎のユーモラスな交流、ほろ苦い親子の葛藤、そして愛がある。父の芝居好き、洋画好き、本好きは息子に大きな影響を与えた。

 父増太郎は神田の米穀店主で、東京白米商同業組合の理事などいくつかの公職にありながら大の政治好きで、大正3年の海軍高官の収賄によるシーメンス事件では時の山本権兵衛内閣を糾弾する日比谷公会堂での大演説で新聞記事になったり、時にはヤクザと渡り合ったり、関東大震災時には朝鮮人を救ったり、枚挙にいとまのない侠気の人だった。

一方で、優しい情の人だった。そうしたエピソードの最たるものに、息子義太郎の誕生日に息子の成長と家族の幸福を祈って、大きな鯉を三尾、皇居のお堀に28年間放流し続けたという話がある。これには後日談があり、昭和18年、二度目の応召で満州に渡った義太郎が家から送られてきた朝日新聞で「宮城のお濠の鯉がいよいよ都民の食膳に供せられることになった。鯉も銃後のご奉公の一端をになうことになった。ただどうして鯉がこんなに増えたのかわからない」という記事を目にした。

そこで義太郎は、朝日新聞に手紙を書いた。大正2年から、自分の誕生日に父が親子三人にちなみ三尾の大鯉を宮城のお濠に放ってきたこと、昭和15年に母がなくなり鯉は二尾になり、同16年に自分が帰還して、父がまた二人で鯉を放ちに行けると喜びながら数日後に他界したこと。そのお濠の鯉が貸し下げられるという。「その新聞記事を義太郎さんは遠くいまハルビンで読んだのである」と、朝日新聞「青鉛筆」欄に手紙の内容が載ったという。

 軍隊では、父親譲りで軍神広瀬武夫中佐の講談をやって人気を博したり、部隊歌を作って採用され、大いに流行らしたりしながら、時には親譲りの侠気で無道な上官と対立しながらも「滅私奉公」ならぬ「生私奉公」を心がけ、得意端然、失意泰然として生き延びた。

 父と戦地の息子との手紙は素直で濃密な親子愛を湛えている。とりわけ最愛の妻を亡くした増太郎と敬慕する母親を失った義太郎との、逃げることなく悲しみに正対し、折り目正しい言辞で心を披瀝する往復書簡は読む者の涙をさそう。

 編者のあとがきによれば、義太郎は、昭和16年6月に召集解除となったものの、その12月に大東亜戦争が始まり、2年後の18年に再び召集令を受け、新妻と生後7日目の長男を残して戦地に赴く。戦後はシベリアに抑留され、22年に骨と皮だけになって帰還する。

 帰還後は、ポマードの製造などで糊口をしのぎ、かたわらシベリア抑留者引き上げ促進運動を行った。講談師、四代目邑井貞吉門下に入り「邑井操」となり、財界講談という新しいジャンルを開拓する。しばらくして講談をやめ、昭和30年代半ばから人物評論、経営論、人間関係論、講演、執筆活動に打ち込む。著書は「伸びる男はどこがちがうか」「説得力101の法則」「男の値打ちは何で決まるか」「人の心をつかむ」など、63冊を数える。

編者は、父邑井操こと義太郎を「私にとって慈父、厳父、師、友を合わせたような人でした。座右の銘は『己を生かし、他人(ひと)を生かす』でした」と言う。これは義太郎にとってもおそらく父増太郎に捧げる思いであったろう。

(山勘 2013年1月8日)

北朝鮮スーパーエリート達から日本人への伝言/加藤嘉一(講談社+α新書 2012年2月20日第1刷発行 本体895円)


著者は1984年静岡県生まれ。北京大学朝鮮半島研究センター研究員。同大学国際関係学院大学院修士課程修了。

英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニストやCCTV、香港フェニックスTV等のコメンテーターも務める。年間300以上の取材を受け、200本以上のコラムを書き、100以上の講義を行う。

中国版ツイッター「新浪微博」のフォロワー数は100万人以上。中国の発展に貢献した人に贈られる「時代騎士賞」受賞(2010年)。

著書に「われ日本海の橋とならん」はベストセラーになった。

趣味はマラソン。

本書は2011年1月から2012年3月まで「日経ビジネス オンライン」で連載した同名の記事を加筆・修正したもの。



まえがき

序章 北朝鮮スーパーエリート達の日常

1章 中朝国境の支配者

2章 中朝国境のアメリカ

3章 脱北者の群れ

4章 国境の少女と女医

5章 中国と北朝鮮の間にある感情

終章 習近平の北朝鮮政策

あとがき

 著者は、高校卒業後北京大学へ留学し、国際関係学院という学部で学び更に修士課程を北京で終了した。その時に周りに北朝鮮からの留学生(学部生が中心)が常時20人くらいいた。彼らは多くを語らなかったが北朝鮮中枢にポジショニングされ、国家運営に携わってゆくことは確かだ。ともに学び切磋琢磨したので、今後国際政治の舞台で戦ってゆくという意識の範疇を超えた友情と国交無き信頼が、抱き合って別れを惜しんだ。その一人のK君は「国際関係にとって、真相がどこにあるか分かるのが国境だ。国境で何が起こっているか、何が見えるか、どういう匂いがするか、どういう人たちが行き来しているか、すべてはそこから始まる」という伝言だった。09年から11年にかけて1300km以上の中朝国境のうち≒300kmを自らの足で歩いた。そこには真の国際関係があった。そして彼の言葉は正しかった、と今は言えるという(まえがきより)。



書感

 著者が「朝鮮半島研究センター研究員」という肩書なので興味本位に読んだ。国境、特に脱北者を銃撃するのを目の当たりにしたり、密輸に暮らす人たちをインタビューしたりとリアルなドキュメントで、読者が国境にいるような気分にさせる。

私が特に興味を持ったのは、中朝関係を述べた第5章である。

対朝外交の核心的ブレーンに聞いても「北朝鮮の行動パターンは我々にも読めない」。「長年、体制崩壊を防ぐべく援助してきたのに彼らは時として中国に面子を与えない。ろくに連絡もしないで核実験をやったりする」。軍事関係者は「北朝鮮は鶏のレバー」と言われるそうだ。肉は無くうまみは無いけれど捨てるには惜しい」という。中国共産党・政府・軍の関係者が対朝外交で手をこまねいている現実を諸外国は理解しておく必要があると著者は主張する。

であるが、北朝鮮は中国の「戦略的防波堤」であり「同盟国」だという意見が中国社会の主流でもある。

崩壊されては北東アジアのパワーバランスが崩れるという現実的懸念もあるが、これだけテコ入れすれば国際社会においてイメージは急降下するのも無理はない。日本や韓国・アメリカと歩調を合わせるのが中国の国益にかなうはずなのだが、こうまでしなければならないのは「イデオロギー」だと多くの関係者が言うそうだ(帝国主義国とともに戦った、ということ)。

家庭・学校・社会・あらゆる教育の現場で語り継がれてきたイデオロギーの影響は本当に大きい、とも。国益という視点だけではない展開せざるを得ない外交が必要ということが理解できる。

最後に「保護から圧力へ転換する習近平」という終章が面白い。当時副主席の習が「中朝関係新鋭研究・分析組」を発足させ、いつまでも子ども扱いをするわけにはいかない、包括的な対朝鮮関係を如何にマネジメントするかを諮問した結果がこれだという。それには①改革開放は絶対条件②核実験や武力行使はもってのほか、状況次第では制裁も③六か国協議など米・韓・日とより一層歩調を合わせ、北に圧力をかけることも辞さない。習が転換への意識を持っていることが改革への第1歩であり、今後の動きが注目される。

(恵比寿っさん 2013年1月11日)

                                                                       

狼がやってきた日/柳田邦男(文春文庫 1982年 360円)


 初版は1979年に同じ出版社から単行本として出た。本書のタイトルは、石油が武器として使われた第四次中東戦争を的確に予言したアメリカの外交問題専門誌「フォーリン・アフェアーズ」1973年4月号に掲載された論文「石油危機・今度こそ狼はやってくる」から取られたようだが、1973年以降に起こった石油危機のドキュメントである本書は、東日本大震災と同時に発生した深刻な原発事故以後、日本人が新たに直面したエネルギー問題を考えるうえで、オイルショックという日本が戦後初めて経験した国家的危機に、政府や官僚や商社が、マスコミがそして国民が何を考え、どう行動したのか、社会の混乱期に選択すべき方向を考えるために、今改めて読み返す価値のある書といえる。

石油を強力な交渉戦略に使い始めた中東諸国に輸入のほとんどを依存していた日本は、にわかに油乞い外交を開始したが、それまでの欧米重視の日本外交がこれからは開発途上国との協調なくして日本の将来はないことを思い知った点で、歴史上の重要なターニングポイントになった。

石油供給の安定化はもちろん、高騰する石油価格の負担を、大衆が消費する灯油やガソリンと産業界が消費する重油のどちらに振り向けるか、現在の原子力発電の需要状況と似た選択が当時の政府を悩ませた。結果的に政府が取った政策は大衆受けする灯油価格据え置きと工業用重油の値上げと消費規制で、そのために産業界は体力の限界まで疲弊した。それに比べて欧米は、大企業規制もしたがマイカーや街路の照明規制も厳しく、厳罰規定を設けて庶民の週末ドライブを禁止し、重要産業についてはエネルギー供給に配慮したそうだ。

日本の戦後経済史を振り返ると、一度だけ重要産業を最優先したときがあった。吉田内閣から片山内閣に引き継がれた「傾斜生産方式」は、荒廃した日本の経済を立て直すために、消費財生産部門を犠牲にしても産業活動の最もベースになる石炭と鉄鋼増産に施策の全精力を注ぐ、国家的視点に立った「迂回生産方式」という発想である。これはマルクスの拡大再生産論から思い付いたものだそうで、マルクス経済学が日本の資本主義の再建に貢献した例だという。

日本のマスコミは、事実を伝えるよりもすべてが同一方向を向いて大合唱する。石油危機のときも、庶民は経済の全体像を把握するだけの知識も分析力もないため、女子高生の噂から始まった地方信用金庫の取付け騒ぎ、洗剤問屋に山積みになった商品を見たマスコミが報道した売り惜しみ疑惑など、結果的には根も葉もないデマが大きなパニックに発展した。無意味な企業批判やトイレットペーパー買占め騒ぎはその典型といえる。

あれから40年近く経った現在、原発事故報道で日本のメディアは果たして真実を伝えただろうか。放射能汚染で半永久的に故郷に戻れない住民の気持ちを代弁しているだろうか。著者はあとがきで、本書の執筆で国際社会における日本と日本人の特殊性、危機意識を持たない政府と国民について学ぶことが多かったと述べている。日本大震災と原発事故という“狼”に再び立ち向かう日本がどのような方向を選択すべきか、本書から得られる示唆は大きいものがある。

(本屋学門 2013年1月15日)

よりぬきサザエサン全10巻/長谷川町子(朝日新聞出版 各巻1,000円 順次刊行中)


御存知サザエさんの復刻版で、著者自身が選んだ1000作が10巻に収められている。ほとんどが新聞に掲載された4コマ漫画である。単に笑いを求めるのではなく、終戦後20年間の激動期に一般家庭が生き生きと過ごした様子が思い出されなつかしい。

漫画のなかに目に留まった点をいくつか紹介してみる。


家庭内ではいろいろな動物が人間と共存して生活していた。家屋の壁にはちいさな穴があけられ、鼠一家が出入りしている。猫は、昔中国から輸入されたころと同じように、ときおり鼠をつかまえては自慢げに主人に見せにいくが皆殺しにして自分の仕事がなくなるようなことはしないでそっと逃がしてやる。犬の役目は泥棒らしきものを見つけ大声でほえる。子供の遊び仲間でもある。庭の鶏は毎日卵を産むので大切にされるが、時がくると一家の御馳走にされてしまう。蚤も珍しくなくDDTの白い粉を頭から振り掛ける。


家庭への来客は多かった。お中元、お歳暮は配達でなく持参して御挨拶の口上をのべるのが普通だった。お盆には寺の坊さまが呼ばれて経を読んだ。当然、お茶を勧められ、時によっては出前のそば、うなぎ、すしなどを奮発されたが、客用に一人前だけで、家人が相伴することはまれであった。いただいたお遣い物を次の進物として流用する場面もよく登場する。会社の同僚との飲み会のあと自宅に連れてきて飲みなおす事も多かったが突然の来客に奥さんはおかんむり。質素な日常の中で、せいっぱいのおもてなし、武士は食わねどたか楊枝の中から思わず噴出すような珍事件が続発する。


客ではないが、押し売り、御用聞き、獅子舞、復員帰り、務所帰り、現役の泥棒・強盗、警察官、いざり、乞食 各種の愛すべきキャラクターが身近に感じられる存在として登場する。御近所の子供たちはどこの家にも出入り自由で、棒切れを持って家の中を走り回る。裕福なお宅にはテレビ、電話もあり近所中で使わせていただいた。

エイプリルフールは今よりさかんに楽しまれていた。


貧しくても助け合い、一歩一歩復興していく実感があり、なつかしくも良い時代であった。読んでもギャグのおもしろさが分からない作品の数が増えたのは問題である。

(高幡童子 2013年1月15日)

田宮模型の仕事/田宮俊作(文春文庫2000年 524円)


 TAMIYAといえば今や世界有数の模型メーカー。中でもプラモデルはその精密さで世界中の模型ファンに知られている。TAMIYAの旧社名は「田宮模型」。これは社長(当時、現在は会長)自らが書いた同社発展の歴史である。

田宮模型は田宮社長の父が戦災で運送店を失い、戦後製材業「田宮商事」を創業し、製材業の傍ら木製模型キットを手がけたことに始まる。田宮俊作は戦後東京の私大に進学したものの、生活費は田宮商事の売掛金を自ら回収して充てるという、ぎりぎりの窮乏生活を送った。母が病気の治療費を削って息子への仕送りに回し、俊作の卒業式の日、51歳で世を去った話は本当に痛ましい。


 卒業後、父の跡取りとして模型キットの製造技術改良に乗り出すが、模型の材料は木からプラスチックに変わりつつあった。輸入品のアメリカ製プラモデルの精巧さに衝撃を受け、プラモ製造を始めるが、傲慢な金型屋に泣かされたり、不慣れな仕事に苦労する。やっと発売した戦艦武蔵は大赤字。しかし二番目以降の製品の成功で息をつく。田宮社長は製品を自分で組立て、作りやすい順序と分かりやすい説明文を考えた。その後パッケージの絵を一流の画家に頼み、金型も自社生産するなどして一流のプラモメーカーに成長していく。


 TAMIYAが世界市場に進出する過程は感動的だ。1966年模型問屋のアメリカ視察団に加わり、自社のスロットレーシングカー売り込みを図るが、「安かろう悪かろうの日本製」とだれも相手にしない。傷心の帰国後、世界一にならねばダメだと、"First in quality around the world"とのスローガンを掲げた。製品の品質のみならず、説明書、パッケージ、サービス、社員の技術レベルに至るまで世界一流を目指す決心をした。その努力は報われ国際模型ショーでは毎回注目の的、海外取材先では特別待遇を受けるようになった。


 田宮俊作には不思議なオーラがある。海外では有力代理店主、博物館館長、模型ファンの退役軍人、国内ではそれぞれの分野での専門家、熱烈な模型マニアの社員など、仕事に必要な人材が周囲に集まってくる。また模型業界は流行の山と谷があり、何度も苦境に立たされるが、危機の都度その後状況は好転する。これは社長の才覚もさることながら、世界一を目指す意欲を天が応援したのであろう。海外取材旅行には若手スタッフを伴い、自らも撮影やスケッチを行う。時間を惜しみ昼食も抜かすなど、社長自身がいわゆるオタク人間なのだ。


 若い頃プラモ組立てに夢中だった狸吉にとって田宮社長はヒーローだ。いつまでも模型少年の心を失わない田宮社長に心から敬意を表する。本書は古本屋の店先でふと目に留まったものだが、読み始めたらぐいぐいと文章に引き込まれた。恐らく本の方から「この本を読め」と呼びかけたのだろう。古書屋巡りは、時たまこういう出会いがあるから止められない。

(狸吉 2013年1月16日)

エッセイ 2013年1月分
 「いま」を生きる



 もうおそい ということは

人生にはないのだ

 

 おくれて

 行列のうしろに立ったのに

 ふと 気がつくと

 うしろにもう行列が続いている

 おわりはいつも はじまりである


 これは、昨年5月、97歳で亡くなった杉山平一の「いま」という詩である。数々の受賞歴を持つ詩人だが、最後の詩集「希望」で日本現代詩人賞を受け、授賞式を2週間後に控えてこの世を去った。

この詩人を深くは理解していないが、その弟君の杉山卓氏より詩集をいただいて読み、平明で心に響く作品、時にウイットとユーモアに富んだ作品に魅了された。

平易な言葉を使って日常の断片を淡々と切り取って見せながら、終わりの1、2行で読み手を思いもよらない異次元にどんでん返しで放り出す。あるいはウイットとユーモアでいざなう。そんな作品がどれも魅力的だ。

死の前年、96歳で上梓した詩集が「希望」であり、その中にこの詩「いま」がある。「もうおそいということは人生にはないのだ」。みずみずしい詩人の魂がそう言っている。「おくれて行列の後ろに」立っても、しまった遅かったと出遅れを悔やむことはないのだ。「ふと気がつくと、うしろにもう行列が続いている」。後ろを見て思う。ざまあみろ、俺の勝ちだ。それにしても前に並んでいる奴らはいまいましい、などと考えてはいけないのだ。

「希望」は「いま」にある。「希望」は先行きの成就を願うことであり、「いま」は過去と未来のあいだの一瞬の「いま」だ。「希望」は先のことで「いま」はいまだから時間差があって合体できない、と考えてはいけないのだ。「おわりはいつもはじまりである」。

おわりの「いま」がはじまりである。ぐるぐる回転するのだから、先を争うこともない。遅れてきたものを見下すこともない。出遅れたように見える己の運の悪さ、ツキのなさを嘆くことはない。いま立っているここでいいのだ。そう考えれば、未来の「希望」と「いま」は合体できると分かってくる。詩人はそう確信して生きた。

今でいいのだ。命は子や孫が引き継ぐ。たとい身を分けた子や孫がいなくても、自分はご先祖様と次世代をつなぐ「いま」を生きているのだ。人間の命の「おわりはいつも、はじまりである」。明るい「希望」は今ここにある。今に感謝し今を喜べばいいのだ。刹那的にではなく、輪廻を知って「いま」を生きればいいのだ。

「いま」を見事に生き抜いた詩人杉山平一の生き方が、そう教えている。

(山勘 2013年1月8日)

行きつけの理髪店


 昔から、散髪して貰って自分の思い通りに仕上げて貰えなくて残念な気持ちになったことが多くありました。向こうさんに言わせれば、素材が悪いので、こうなるとの言い分でしょう。しかし、言った通りにカットしてくれるのであれば、溜飲が下がるのですが、やり手(理容師)の美観に基づく仕上げをされているのではないか、という不満がいつも残りました。ところが、今は満足しています。


カットだけだと¥980(税金込みでです)。我が家と駅を結ぶ路上にあり、この店が開業してから3年間通い続けています。私は毎回、店長指名で予約を入れます(予約料なし)。待ち時間なし。約15分で完了します。シャンプーと髭剃りはなし(フルコースやれば¥1,980)。

 今の私は頭頂部が薄くなり、それを目立たせないようにするために、全体を短髪にしています。そして私の注文は、①頭頂部の薄さが目立たないように全体を短く、②メガネのツルの当たる部分は更に短め、ということですが、店ではカルテを作り、毎回満足のゆく出来映えです。

 短髪ですから、直ぐに伸びが目立つので2週間に1度は必ず通います。でも、待ち時間はなし、15分で終わるので苦になりません。毎月の散髪代金は¥1,960と安いのも魅力です。


 直ぐ近くには、㋑カットのみ¥1,000という大きなチェーン(予約は不可で、待ち時間はランプ色表示)の店、㋺従来業態の理容店(¥4,000)があり、今の行きつけの店が開店するまでは、㋑や㋺をうろうろしていましたが、今や浮気は全くしません。


 二男は、我が家から通勤していた時期があり、その時に㋺に通い、今でも我が家に駐車してこの理容店に通っています。妻子があり、借金して戸建てを手に入れているので、懐具合を心配して私の行きつけを紹介しても、相変わらず㋺に通っています。かっこうに拘る二男ですが、愛知にいる長男はかっこうを構わない性格なので、どんな業態の理髪店に通っているのか、今度聞いてみようと思います。


 いまや、理容業界も価格破壊の時代で、いろいろな店があります。㋺は毎日通りがかりで覗くのですが、閑古鳥が鳴いています。㋑と全く同じ業態の同業者が近くに進出しましたが、直ぐに撤退しました。

 私の行きつけは、開業初めのころは客が少なく(安かろう、悪かろうと誰もが警戒した?!)こちらが心配するくらいでしたが、今は非常に繁盛しています。私の見るところ、私の行きつけが1位、㋑が2位、㋺が3位という客数です。こういう目であちこちの街を観察すると、価格破壊の理容店がけっこう目につきます。


 私の価値観・利便性から考えると、今の行きつけの店を変えるなんて考えられません。

 誰もが行きつけの店(お気に入り)(飲み屋ではありません)を持っているので、いろいろな業態の理容店がこんなに密集(以上の3店は互いに約50mの距離にある)していても、経営が成り立つのだな、と感心しています。

 でも、安く早く出来る店を試してみる(勇気は要りますが)価値はあるように思います。勿論、私は私の価値観・利便性で、今の行きつけよりも良い店が開業すれば、直ぐに試します。

(恵比寿っさん 2013年1月11日)


夏(か)の国の西王母の記載が「ホツマツタヱ」に!


 「ホツマツタヱ」の解読を始めて約 4年、やっと半分近くまで辿りつきました。先人者も述べておられましたが、ざるで水を掬うという実感の中、まだまだこれからだという感じです。そんな中で、昨年、自分にとって新しい発見があり感動しました。それは、偶然にも、NHKで中井貴一氏(佐田啓二の息子です)がナビゲーターで、古代中国の最古の王朝「夏」を取り上げていたからです。

 ホツマツタヱの15綾(章)を解読していた個所に、この「夏の国」や「西王母」を言っている言葉が見出され、興奮していたからです。ホツマツタヱは、国内の古代についてだけと思いこんでいたのに、はるか遠方の世界の記述がされており驚きました。新羅とか任那も出てきますが較べようがありませんでした。


 中国の最古の王朝と考えられていたのは「殷」で、「夏」は「史記」などの文献に登場するものの、考古学の裏付けがないことから、「幻」と考えられてきていました。しかし、近年の発掘で、ついに実在が確認されたようです。「夏」が誕生した紀元前2000年頃は、黄河流域だけでなく南の長江流域などでも多様な文化が同時多発していた時代とあります。

 そう言った中で、このホツマテタヱの具体的な記述情報は貴重なものになると思います。


 さて、この、ホツマツタヱ15綾(章)の中には、天照神が息子の「くすひ」に叔母の「ここり姫・しらやま姫・きくくり姫」(いさなぎの妹・同一人物です)の語りを話すところから始まります。


 「西王母」が2回日本に来ていること、その時の目的がはっきりと書かれていること、

最初に来た時は「うけすてめ」という名前であり、目的は「天なる道」が途絶えたことを憂い「たまきね」(豊受神・天照神の祖父)が奥儀を授けます。(現在伊勢神宮外宮の御祭神)

 「うけすてめ」は「ここり姫」(しらやま姫・いさなぎの妹)と義理の妹として契りを結びます。(しらやま姫は後日、漢字が渡来し、白山と書かれ、「はくさん」と呼ばれるようになっている。白山神社の御祭神)

 「うけすてめ」は、帰国後、「ころびん君」(崑崙王)と結婚して「くろそのつもる」(玄圃積)皇子を生み、西の母上(西王母)と崇められます。

 「西王母」となってから、健康と長寿の奥法(おくのり)を求めに再び来日します。長寿のミチノク(道奥・奥義)のアマナリノミチ(天成神道)を「西王母」に授けました。授けた内容の詳細は分かりませんが、千代見草・不老長寿の薬草と言われるものも含まれていたと思われます。


 中国南北朝時代の「神異教」の「中荒経」には、西王母は七夕伝承の織女のように一年に一度稀有という大鳥に翼の上に登って東王公に会いに行くという記述があるようです。(アジア女神大全より)


 また、「西王母」が不老長寿の薬草を求めに日本に行ったという記録が、多分中国にも残っていて、時代が下がってから、徐福一行が日本を目指したことにも推測できます。


 他の綾(章)ですが、後に、天照神が誕生された時に、叔母に当たる「しらやま姫」が取り上げ、割礼の儀式を執り行ったと思われる記述があり、「うけすてめ・西王母」からユダヤを含めて西方の情報を詳細に受け取っていたことが容易に推測できることから、この時、始めて割礼の儀式が執り行われたと考えます。


 以下に、ホツマツタヱ15綾後半原文のひらがな訳と私の解読例を示します。(松本善之助氏と高畠精二氏の解釈を参考にさせていただいています)


 とこたちの やもをめくりて(15-42)

にしのくに くろそのつみて

かにあたる なもあかかたの

とよくんぬ よゝおさむれと


 遠い昔、「くにとこたち」(天神初代)は、地球の八方の地を巡り廻って、はるか西の国へと至った。その地を開拓して「くろそのつみ」国を建国しました。この地方を「か」(夏)と称している所で、名前は赤懸(赤県)と呼ばれるようになりました。 「とよくんぬ」は代々この地を治めてきました。


 としをへて みちつきぬるを(15-43)


 しかし、長い年月を経て、「天なる道」も風化して途絶えてしまいました。


 うけすてめ ねのくにゝきて(15-43)

たまきねに よくつかうれば

みにこたえ


 「天なる道」の教えが途絶えたことを憂いた「とよくんぬ」の子孫の「うけすてめ」(後の西王母)は、はるばる「ね」の国(北陸、白山)へ「たまきね」(豊受神、天照神の祖父)を慕って来朝しました。そして、実の父のように良くお仕えをしました。


 こゝりのいもと(15-43)

むすばせて やまのみちのく(15-44)

さづけます


 「たまきね」(豊受神、天照神の祖父)は、「うけすてめ」(後の西王母)を、「ここり姫」(しらやま姫、「いさなぎ」の妹)の義理の妹として契りを結び、大和の道の奥、陸奥(仙台地方)を授けました。奥儀を授けた事にも通じます。


 よろこびかえる(15-44)

うけすてめ ころびんきみと

ちなみあひ くろそのつもる

みこうみて にしのはゝかみ(15-45)


 「うけすてめ」は「たまきね」の配慮に感動し、喜んで中国へ帰国します。そして、「ころびん君」(崑崙王)と結婚して「くろそのつもる」(玄圃積)皇子を生み、西の母上(西王母)と崇められました。


 またきたり ころやまもとは(15-45)

おろかにて しゝあぢたしみ

はやかれし もゝやふもゝぞ


 その西の母上(西王母)が、遠路はるばる中国河南省から、日本の日高見国(仙台多賀地方)まで、再びやってきました。「ころやまもと」(崑崙山本)の国民は愚かにも肉食で(肉の味を嗜む)、その結果、皆、早死にしており、百才とか二百才でしかありません。


 たまゆらに ちよろあれとも(15-46)

ひゝのしゝ しなきみいでゝ

ちよみぐさ たづぬとなげく


 なかにはごく僅かですが、千とか万とか生き延びる神もいますが日々、肉食を続けています。

夏(か)の国では、支那の君が現われて、不老長寿の千代見草を探し求めていましたが見つからないと嘆いています。


わかみゝも けがるゝあかを(15-46)

みそぎせし(15-47)


  私はいろいろな要求を聞かされて汚れた耳の垢を祓うために禊ぎをして身も心も清めました。


 ながらふみちを(15-47)

よろこべは かれをなけきて

みちさづく


 「天なる道」(天成神道)に向かって長寿の道を行くことがこの上なく喜びです。しかしながら、枯れ(早死)の嘆きを聞いて、天成神道を授けましょう。


 をもえいのちは(15-47)

みのたから ことわさもせな

よろきみも ひとりいのちの(15-48)

かわりなし


 思い起こしなさい。人の命こそが己が身の宝です。この言葉をことわざにしなさい。万人を治めている君(君主)と言えども一人の人間の命にかわりはありません。


 ときこぬかれは(15-48)

くるしみて たまのおみたれ

あにあえず


 天から与えられた寿命を待たずに死ぬ(枯れる)ことは、魂の緒が乱れ苦しんで、天の元宮に帰れず、獣に成り下がることになります。


 よめひたもちて(15-48)

(あにかえず)

あにあがる ときはたのしみ(15-49)

     (ときはたのみみ)

まかるなり

 天寿(余命)を全うして、天に神上がるときは、苦しむことなく安楽に死を迎えるでしょう。

 これこゝなしの(15-49)

ときまちて かるゝにほひも

ひとのみも すがかてはみて

よろほゑて かるゝにほひも(15-50)

こゝなしぞ


 このことは、「ここなし」(菊)の花は、自然に枯れていくまでも、香しく匂い続けます。同じように、人間の肉体も、生前清々しい食材を食べていれば万年もの寿命を得て、死んでも肉体は菊の花のように香しい匂いです。


 おもむろすぐに(15-50)

かんかたち


 亡きがらは直ちに神体になり、御霊は宮に安置され菊の香と共に天に送られましょう。

 がしゝはくさく(15-50)

おもみだれ とくははらひに(とくはあらひみ)


 これに反し、汚れた肉を食べた者は臭く魂の緒も乱れ、解毒するためお祓いをして清めなければなりません。


 うるとなも こゝなひつきの(15-51)

みたねゆえ くえはめのたま

あきらかに あひもとむなり


 九月にもなると、米(玄米)と菜(野菜)の作物は実ります。

 米は「日」の種(精霊)、菜は「月」の種(精霊)ですから、これらを食べると、目がくっきりと見えるようになり、共に求め合い、魂も光に溢れ目が輝き明るくなります。

左目が日の精霊、右目が月の精霊、米が日の精霊、菜が月の精霊、これらがお互いに惹きつけあうことを言っています。


 あめのみち なすひとかみと(15-51)(なすひとかみに)

あひもとむ ゆえにこゝなし(15-52)

めつるこれかな


 「天なる道」(天成神道)を素直に進む人を神は感応して助けるでしょう。故に、私が菊の花を愛でる由縁がここにあります。

(ジョンレノ・ホツマ 2013年1月9日)

ネットエッセイ/日本ムラ


安部政権が発足し、その最優先課題がデフレ脱却である。デフレ脱却は大いに望むものであるが、その手法たるや特に目新しいものは無く、過去言い古されたものばかりなのが心配だ。

そもそも、紙幣経済の歴史は、人類史上極めて新しいもので、その実績は無いに等しい。輪転機を稼動させれば紙幣は無限に出てくる、この仕掛けを維持する為に、中央銀行の独立性と言うアンカーを設けたはずである。そのアンカーを外すと言うから何を考えているのかと言いたい。

そもそも、自民党と言う政党は、その構成する人種からも判る様に、ムラ社会を作る人達であり、それは原発ムラ社会の崩壊で実証済みである。今度は、政界、財界、金融界で構成するムラ社会を構成し、紙幣経済社会化の崩壊へ導こうとする事なのか、だとすれば猛烈な勢いで進むインフレが始まり、その崩壊を認識しなければならない。

今回の選挙で投票率が40%であった事からも理解出来るように、産業界からの強烈なバックに支えられ、判断力を欠いた庶民のなせる技とすれば、我々庶民の一員として責任の一端があると認識すべきであり、これはもう、地獄の一丁目を目前にしていると覚悟すべきかも知れない。

韓国の猛烈な原発建設件数を見ると、日本においては、エネルギーの強烈なブレークスルーでもないと、日本経済は韓国に太刀打ち出来なくなるだろう。それは、既にトヨタの利益をサムソンが抜いたなどと言う次元の問題ではない。

日本の家電メーカーが次世代TVとして4K方式を進めているが、やる事がないからと言う事なら納得しよう。しかし、現実問題として今以上にTVの高画質を望んでいる人がどれほど存在するか、もちろん、医療、デザイン、映画などの専門分野は別であるが、一般庶民が高価になった4KTVを期待しているとは思えない。

原発ムラ社会の言葉が出たところで、ムラ社会に付いて、面白い意見を聞いたので紹介したい。

まず日本国が日本ムラであって、その下に小さなムラが群がっていると言う。マスコミには記者クラブと言うムラがあり、美術関係では美術ムラが有って、その下に字洋画、字日本画、書道、華道、陶芸、などなどと続き限が無い。それが暗黙だが厳しい村極とか村掟で縛られ違反すれば村八分になる。こんなムラ社会を拾いだすとキリが無いと言う。考えるだけでムラムラするのがムラ社会と言う。

この「日本ムラ」説が正しいとすれば、自民党固有の問題ではなさそうだ。

(致智望 2013年1月15日)