第22回「ノホホンの会」報告

2013年4月18日(木)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:致智望、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、高幡童子、本屋学問)

 今回も、六甲颪さん、狸吉さん、山勘さんがそれぞれのご都合で参加かないませんでしたが、投稿が少なかった分、忌憚のないディスカッションができました。

 “グローバリゼーション”の名のもとに、世界中が強者と弱者に明確に分離される状況をどうするか、民族と国家の盛衰は地勢や民族の遺伝子と関係があるのか、外食が増えてそれに使う食材の処理方法から、ミネラルがどんどんなくなっている恐怖、仏教とキリスト教の意外な共通性、幼児教育の本質など、いつもながら出されるテーマは深いものがあります。

 とくに、0歳児を他人に預けてまで母親が働く必要が本当にあるのかという問いかけについては、働くお母さん方を呼んで公開討論したいくらいです。真の社会福祉とは何か、そんなところまで討論できるのも、当会の面目躍如たるところです。山勘さんのネットエッセイ(3・11と首都圏の帰宅難民)紹介は、次回にお願いします。

(今月の書感)
「そもそも仏教とは何ものか?隠された歴史」(恵比寿っさん)/ 「食べなきゃ、危険!」(ジョンレノ・ホツマ)

(今月のネットエッセイ)
「反面教師」(本屋学問)/「民族の自己責任」(高幡童子)


(事務局)

書感 2013年4月分

そもそも仏教とは何ものか?隠された歴史/副島隆彦(PHP研究所 2012年8月9日第1刷発行 本体1,700円)

1953年福岡市生まれ。早稲田大学法学部卒業。外資系銀行員、予備校講師を経て常葉学園大学教授を務めた。ベストセラー「預金封鎖」、「英文法の謎を解く」などの著者として知られる碩学。                          

 日米の政界・シンクタンクに独自の情報源を持ち、金融経済からアメリカ政治思想、法制度論、英語、歴史など幅広いジャンルで、鋭い洞察と緻密な分析に基づいた評論を展開。また、副島国家戦略研究所を主宰し、日本人初の「民間人国家戦略家」として講演・執筆活動を続けている。

主な著書に「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」「属国・日本論」「ドル覇権の崩壊」「時代を見通す力」「新版決然たる政治学への道」「新版 日本の秘密」などがある(著者略歴のまま)

第1章 御釈迦様の教えはどこへ行ったのか

第2章 2世紀頃、仏教にキリスト教が流れ込んだ

第3章 ブッダの言葉こそ本当の仏教

第4章 宗教の中心は「救済を求める思想」

第5章 救済思想の否定として生まれた禅宗

第6章 般若心経になぜブッダの名前は無いのか?

第7章 「悪人正機説」を解体すると見えてくること

第8章 法華経を通じて見えてくる大乗仏教の正体

第9章 現代の阿弥陀如来の姿

第10章 道教とキリスト教

第11章 現代と救済

あとがき

世に仏像と言われるものは釈迦の姿ではなく、大日如来であったり観音である。日本人はうっかり信じ込んでいるが、いったい何者かどこから来たのかを追求するのが本書である。

仏教はこの世のすべての人間、即ち一切衆生を、現世の苦しみから救おうとした。御釈迦様とイエス・キリストは全く同じ思想をもっていた。しかし、人類の救済は無かった、おそらくこれからもないと著者は言う。

 そもそも世界の3大文明起源の地で、人類の大きな思想がほぼ同じころに生まれていると言う。ブッダが生まれたのが2436年前。古代ギリシャのソクラテスとプラトンもほぼ同じころ。中国道教の祖老子と儒教の祖孔子も同じころである。その後の2500年は人類の進歩は無かったと極論している(文明的なものではなく、真理に近づき仕合せになったかという点で)。ブッダはもともと29歳で出家したバラモン(ヒンズー)教の修行僧だったのに、それを否定して新しい人間愛に満ちた宗教を作った、という。偶像崇拝はもともと釈迦の周辺には無かったが3世紀以降のギリシャ・ローマ文明の影響で崇拝されるとともに「他の仏さま」達が出現したと。このようにインドの精神性の高さは中国よりもずっと上だった。だから中国から多くの留学僧があれだけの苦難の旅をして入印していた。インドにイスラム教が入って来て(9世紀)仏教が衰えるまでの約1000年もの間である。

 (仏陀は)いろいろと苦行しても無駄なことだと気づいて「悟り」とは無駄な事をしてはいけないという思想だと著者は言います。だから大乗仏典はブッダの言葉ではなく口伝を聖典にまとめたものであり、本人の思想とはだいぶ違っている。

この世もあの世もともに捨て去る、だけがほんとの彼の思想だ。従って輪廻転生は無い(それはヒンズー教の思想)。それでもアジアに広がりを見せたのは「愛の思想」を説いたからでやはり救済宗教である。但し、一切衆生を救うとは言わず「出家者が己一人のためにひたすら死に至るまで修行せよと言う。だから、人間を大事にするが大衆救済思想では無い。日本では「法相宗」だけが「死ねば終わり」の思想で、他はみんな葬式仏教になっている。また、インドから少林寺に来た達磨大師の何も信じない禅宗(臨済宗と曹洞宗)は救済を求めない、それを否定することで生まれた宗派なので「大人の思想」と言われるのだ。

日本仏教に残る苦行は、御釈迦様の思想とは無縁に中国経由でヒンズー教の教義が取り入れられたからだとしている。仏教もインドでは9世紀までは栄えていた。9世紀まではヒンズー教を圧倒していた。また「大乗仏教」とは悟りを広めて人々を救済するのに対し「小乗仏教」は自分が悟りを開くことのみを目的とする、という明快な解釈は面白い。仏教とは本来他人のことなどどうでもよい。自身の救済の身を目指していると著者は指摘している。

般若心経の中心は空の思想とも言う。

 親鸞の「ひたすら唱えよ、さらば救われる」と言うのはキリスト教そのものだ。キリスト教が東へ東へと進んで2世紀に中央アジア、北インドで仏教に変化し、そこから阿弥陀・観音・菩薩信仰が生まれた。

(こんな状態なので)今の日本人のほとんどは仏教を捨てている。習俗・習慣としてだけ残っている。或いは先祖崇拝としてだけだ。



書感:著者は仏教の正体を求めて、釈迦の生地や活動地域、或いは敦煌(莫高窟)まで実踏している。が、私にはもともと仏教に限らず宗教的素養が乏しく良く理解できなかった、難しかったと言うのが正直な印象です。

(恵比寿っさん 2013年3月26日)

食べなきゃ、危険!/小若潤一・国光美佳(三五館)


著者はNPO法人「食品と暮らしの安全基金」代表で、ポストハーベスト農薬の全容解明など食品の安全を守る活動の第一人者。本書は、ミネラル不足になる食品の実情を初めて明らかにしたとあります。最後に、天然だしの作り方や、このNPO法人が発行している雑誌の年間購読を勧めているのが落ちですが。

今までにも数多く食材について書かれている本はありますが、現代人が本人はミネラルを充分摂取していると思っていても、食の変化や食材の加工工程が原因でミネラル不足に至った原因を簡単明瞭に説明されていたのでとり上げました。

現代人が抱えている多種の病気、うつ病、リウマチ、冷え性、糖尿病、アルペルガー症候群(自閉的精神病質・性格異常・発達障害)、肌荒れ、アトピー、化学物質過敏症等々の根本はミネラル不足に起因している可能性を指摘しています。


 著者は若い親たちの食事がひどいものになっていて、子供の身体と心に異常が生じているのは、食事の中身が最大の原因と捉えている。ほとんどの医師は、この原因を、食事以外に見つけようとしており、栄養の専門家も食材の中身が悪くなっている所に目を向けていない。

 食事のバランスを追求していても、食品(食材)の現状を見ていないのが問題である。本来の食材の中身にはミネラルが含まれているのに、加工段階でミネラルが取り除かれてしまったカスのようなものになっているのが現状である。


私も本書を読む前までは、今まで充分栄養バランスに気をつけていても、特に加工された食品はよほど注意していないと危険であるということを認識した次第です。食品の表示には充分注意する必要があると同時に、キャリーオーバーという表示義務の無いケースが多々あることも知るべきであると思った次第です。


現在の食品メーカーは商品を流通にのせる時、できるだけ長期にわたり安定した品質を求めるあまり、昔なら当然含まれていた不純物(ミネラルも含む)は取り除かれ、精製されたものが主体になっている。


スーパーなどの最近の惣菜は、弁当、惣菜、冷凍食品、レトルト食品などの原料に、ミネラルが溶け出た「水煮食品」がたくさん使われている。多くの食材を適当な大きさにカットし、水煮した後何度も洗ってから食品添加物のリン酸塩を入れて濁るのを止めている。


食品メーカーは、化学調味料、タンパク加水分解物、酵母エキスなどの調味料で味付けしているので、消費者は栄養成分が溶出したことに気付いていない。人工的な調味料にミネラルはほとんど含まれていない。本来なら、その食材の水溶性成分に含まれているミネラルは洗い流されているからである。


また、加工食品に使われているサラダ油も天ぷら油もほとんどは油以外の成分を抜き取ったミネラル0の精製油。カロリーはとれてもミネラルの摂取はできない。

 食塩も精製塩で、イオン交換膜により、NaClが99%以上で他のミネラルはほとんど含まれていない。古来は、にがり成分を含む天然塩や自然塩であった。


食品添加物の「リン酸塩」を使った加工食品の増加

 リン酸塩は、加工食品の食感や保水性を高めたり、肉の結合性を良くしたり、和菓子にも膨張剤として使われている。

リン酸塩は毒性が低く、体内に吸収されにくいので、過去に問題になったのは亜鉛の摂取を阻害して味覚障害を起こすことと、カルシウムの吸収を阻害して骨粗しょう症の原因になるという位であった。

リン酸塩は食品中のカルシウムを体外に排出するが、多量にカルシウムを摂取していれば微量のリン酸塩であれば何ら問題はない。しかし、ほとんどの加工食品に使われているリン酸塩を知らず知らずのうちに食べ続けていると、微量の必須ミネラルは体外に排出されてしまう。

 鉄とか亜鉛などは食品成分表に出てくるから気にすることは出来るが、バナジウム(糖尿病に関連しているようです)のようなごく微量ミネラルは健康に関する研究がほとんど行なわれていないようです。


 リン酸塩を隠す一括表示について認識しておく必要があります。

 リン酸塩、ポリリン酸Na、メタリン酸Na、ピロリン酸Naなどと表示されていればリン酸塩が確実に使用されている。だが、これらのリン酸塩はpH調整剤、調味料(アミノ酸等)、かんすい、膨張剤、ベーキングパウダー、イーストフード、ガムベースなどと一括して記載することができる。確実に見分けるのであれば、リン酸塩不使用と明記してあるものを選ぶ必要がある。チーズに乳化剤と表示されていたらそれはリン酸塩である。


 原料に魚肉とあるのは魚肉すり身のことで、そこにはリン酸塩が使われているが最終食品への表示が免除される。キャリーオーバーという表示制度である。スーパーで売っている単品の刺身には原料表示が義務付けられているが、盛り合わせの刺身には表示義務がないのと同じである。和菓子の中にも膨張剤の中にリン酸塩が含まれているものが多い。



 更に食品全般がミネラル不足になる理由として、以下のことも指摘しています。

 河川の整備により田畑へ行きわたる水に含まれるミネラルが減少している。トウモロコシなどの飼料穀物をアメリカから大量に輸入して家畜に食べさせ、糞を有機肥料として用いたため、田畑は窒素分が多くなり植物は早く成長したが鉄分が少なくなっているのでミネラルも減っている。


表題が強烈ですが、なるべく加工食品は取らないように、自然のものを取るように心がけましょうという結論にいたりました。

(ジョンレノ・ホツマ 2013年4月17日)

エッセイ 2013年4月分

民族の自己責任


 通信、移動手段が発達し、地球上のあちこちで起きるニュースが毎日のように報道される。そんな中で北朝鮮、シリア、アフガニスタン、アフリカ諸国から伝えられる状況は、食糧不足、人権軽視、原理主義によるテロや虐殺の連鎖など目をおおいたくなる映像が多い。

文句は言いながらも、今や平和な日常生活を過ごしている我々日本人から見ると、気の毒でたまらない、なんとか助けてやりたい、いや、かかわらないで自分のめぐまれた暮らしを守りたい、など思いは複雑多岐、実行することは少なく、基本的には日本人が得意とする「見て見ぬふり」で押し通す。ときおり若干の後ろめたさを感じる時もあるので、この際言い訳を考えてみた。


 ある民族が恵まれ、別の民族が苦しんでいる原因は土地の肥沃度、地下資源の埋蔵量、地震や気象条件等の運、不運がそうとう影響している。民族がこれまで積み重ねてきた教育、知識、文化、社会制度、宗教、蓄積資本も影響している。生まれながらの体力、知能も民族ごとに差があるかもしれない。どの民族の子として生まれるかは、今のところ運である。生まれた時のスタートの条件を平等にすべきか、スタート後の機会を平等にすべきか、そもそも平等を図る目的はなにか、議論が分かれるところであろう。


 民族の運は、結局その民族の歴史から現在まで積み上げた実績に乱数を加えたものとも言える。結局のところ民族の運は民族の自己努力で形成され、結果の自己責任を負うことであろう。


 イラク国民は独裁者フセインをリーダーとして選択し、その結果を清濁あわせて受け入れた。国民がリーダーの選択にどの程度、参加できたのかわからないが、少なくとも部外者の日本国民よりは関与の機会があったはずである。


 日本民族は総合的に見て「良い運」を受け取りはぐくんできた。いま、次世代へ「良い運」を残すには何をすべきか。


 グローバル化が進み、世界は地域と人種にもとづいた民族(または国家)単位から、収入と階級による層別へ変わりつつある。テロの増大は人類の破滅を予感させる。

利の比重が増す中で、情の役割はなにか。

(高幡童子2013年4月16日)



反面教師


ラジオで聞いた話なので細部は忘れたが、東日本大震災の後に東京で洋菓子店を営む有名なパテシエが、自分にできる援助をと仕事の合間に夜なべしてケーキを700個つくり、青年ボランティアに託した。その青年はさっそくケーキを車に積んでやっとのことで石巻近くの避難所に届けたところ、そこには800人いて全員に配るには100個足りないので持って帰ってほしいと責任者がいったという。その人も避難者で、学校の校長だか教頭だかだったそうだ。避難者を統率してまとめるという立場上、責任者はそうした社会的地位にある人が多かったようだが、他の避難所でも同じように断わったところがあったとか。

 ケーキがその後どうなったかは聞き漏らしたが、その責任者の頭のなかには“公平に配る”というマニュアル通りの考え以外、他のどんなアイデアも思い浮かばなかったのだろう。あるいは、見ず知らずの差し入れに毒でも入っていたらと考えたかもしれない。

 それはともかく、もしこの話の通りなら、教育者ならなおのこと、人の善意をどう生かすか、足りない分をどう分け合うかという、これ以上ない実践教育ができなかったのか。震災後間もない被災者の繊細な心のケアが少しでも必要なときに、こんな融通の利かない、大人としての判断力も人の気持に対する思いやりもない人間が、果たして避難所の責任者として適任なのか疑問に思った。


 ある時期、学校ですべてに平等主義がはびこって、成績の順位は付けず、運動会でも優劣がつかないように手をつないで走らせたという話を聞いたことがある。この話がどこまで本当なのか、成人してもう10 年近い子供たちに確かめても、小中学校時代のことは思い出したくもないと口を揃えるくらいだから、ひょっとして我が子供たちもこんな正解主義、事なかれ主義の先生に教わっていたのかもしれない。

 確かに、世の中には不平等なことが多い。だから、せめて教育現場だけでも子供たちが平等に学べ、公平に生活できるようにという先生たちの気持はよくわかる。しかし、生徒全員に配る教材の数が足りないとか、机が足りないとかいうのであれば問題だが、せっかく差し入れてくれたケーキを、数が足りないからと受け取らない感覚が私にはどうしても理解できない。

 全国各地で学校のいじめ問題がクローズアップされたことで、地方の教育委員会や学校関係者がよくマスコミに登場し、改めて彼らの浮世離れした応対ぶりが話題になった。問題の本質をまったく理解しようとせず、ひたすら弁解や保身に走る教育者の醜態を見るにつけ、こんな人たちが社会正義や道徳・倫理を教えていたのか、子供の教育を任せていたのかと世間が知ったことは大変意義深い。これこそが正真正銘“反面教師”である。もっといえば、こんな教育者だからいじめが起こったのかもしれない。

高度成長時代、教員の数が絶対的に不足して、必ずしも教育者向きでない人間が大量に採用され、“でもしか先生”という、あまり名誉でない流行語も生まれた。しかし、今や少子化で教員定数も減り、この分野の就職活動は激戦だそうで、現在はどちらかといえば志の高い教師志望者が多いと聞く。子供たちを必死に守り、モンスターペアレントにもいじめ問題にも、そして文部科学省の不当な介入にも真正面から立ち向かっていける、新しい時代の教師像を求めるのは理想にすぎるだろうか。


(本屋学問 2013年3月24日