例会報告
第36回「ノホホンの会」報告

2014年7月30日(金)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

今回は、囲碁の国際会議でルーマニア出張となった高幡童子さん以外、30℃を超える猛暑のなか、皆さん元気に参加の例会になり、投稿もバラエティに富んだ内容でした。

「アメリカにいない哲学者、ドイツにいないコメディアン…」とはどこかで読んだアメリカンジョークですが、「世界十五大哲学」にもアメリカ人は登場しません。ノーベル経済学賞を貰ったアメリカ人がつくった会社がすぐ倒産したように、アメリカ人
は確かにブラックユーモアが好きな国民のようです。「エネルギーとコストのからくり」も、これから日本が真剣に考えるべき重要な事柄を含んでいるような気がします。自動車の完全無人運転社会は実現するのか、世界中が近代化したら果たしてエネルギーは、水は…? 想像すると真剣に考えてしまう現実もあります。

例会後は、ご夫人方の参加を得て、この上ない華やかな暑気払いとなりました。いつもながら、恵比寿っさんには大変お世話になりました。ただ、勢いに乗って飲みすぎたのか、日本酒の銘柄が次々と品切れになり、客も店員も戸惑っていました。

8月は恒例のように夏休みとします。皆さん、雨にも風にも酷暑にも負けず、大いに英気を養い、来るべき9月例会、また飲み会にお備えください。

(今月の書感)

「身近なモノ事始め事典」(本屋学問)/「世界十五大哲学」(山勘)/「エネル
ギーとコストのからくり」(ジョンレノ・ホツマ)/「雑草のはなし 見つけ方、た
のしみ方」(恵比寿っさん)/「自転車に乗る漱石―100年前のロンドン」(狸吉)

(今月のネットエッセイ)

「新時代の電機業界」(致智望)/「続・卑弥呼と邪馬台国」(ジョンレノ・ホツマ)/「絵の見方・描き方の深み」(山勘)/「桃李もの言わざれども…」(本屋学問)

(事務局)
 書 感

身近なモノ事始め事典/三浦基弘(東京堂出版 2010年9月 本体1,900円)


 板付きカマボコが初めて文献に登場するのは室町時代の1504(永正1)年に書かれた「食物服用之巻」で、板が付いているのはカマボコに水分が多いと板がそれを吸収し、逆に乾燥すると板から水分を補うためで、実に科学的な理由によるそうだ。この板を「空板」(からいた)といい、昔は杉、今は樅などが使われる。


そんなことが書いてある本書は、月刊雑誌「技術教室」に10年近く連載されたものが素材になっている。著者は構造力学、土木工学が専門で、長く工業高校や大学で教鞭を取った。読者対象が中学校の技術家庭教師なので、科学知識があることを前提に書かれているが、「食べ物」「文具・日用品」「身近な道具」「機械・エネルギー」「遊び・スポーツ・身体」の5編にまとめた80項目すべてに、読めばなるほどと納得する科学や工学の “事始め”にまつわるエピソードがちりばめられていて、技術史も得意とする著者らしい丁寧な解説がわかりやすい。


「ビスケット」はヨーロッパから東回りで、「クッキー」はアメリカを経て西回りで日本に伝わったので、名称も違い最初は別な菓子と思われていたが、成分的にも製法もほとんど同じで、手づくり風で糖分と脂肪分が多いのを「クッキー」と呼ぶそうだ。スウェーデンのその名も「テトラパック」社が世界最初の牛乳パックを開発したのは1956年で、ポリエチレンを熱で溶かすコーティング技術が確立されたから。“油を売る”と油の粘性の関係や、インスタントコーヒーもスチームアイロンもアメリカ在住の日本人化学者が発明したとか、世界で生産される塩の2/3は岩塩とか、ビールはパンづくりからできたとか、とにかく食べ物に関する意外な話も多く、十分に話の種になる。


人体の熱は、筋肉の収縮や神経細胞の活動で糖が反応して発生する。熱が発生する部位は、骨格筋22%、肝臓20%、脳18%、心臓11%、腎臓7%、皮膚5%、その他17%で、これらの熱を血液が循環して体を温めたり冷やしたりする。人の体温は一般的に約37℃といわれるが、厳密には人体内部の温度を「核心温度」、体表面の温度を「表層温度」といい、体表面は外気に大きく影響するので、極端な場合10℃以上の温度差になる。体温の調節は大脳の内部でやるそうだが、過度の疲労や泥酔状態ではこの機能が低下して死に至る。


私たちが暑さ寒さをしのぐために使っている便利な保冷剤や保温剤は、物質が温度差で化学変化を起こすときの絶妙な熱の吸収や放散を利用したものだが、現在は宇宙服の開発から生まれた機能繊維がとくにスポーツウェア分野で体温調節や運動能力のアップに実用化されている。


ベースボールを「野球」と和訳したのは正岡子規といわれているが、本書によれば当時の第一高等中学校(開成学校の後身)野球部員の中馬庚(ちゅうまんかなえ)である。子規自身が野球を好み、幼名の升(のぼる)から俳号に「野球」(のぼーる)を使い、野球用語もたくさん翻訳していたので、巷間そのように伝わったらしい。


江戸末期の水戸・偕楽園「好文亭」には2階に料理を運ぶ手動リフトがあったそうで、1890年11月10日に浅草「凌雲閣」に設置された日本最初のエレベータはアメリカ製の水圧式だったが、安全装置が不備で7か月後には取り外された。それでも11月10日は「エレベータの日」とされている。ちなみに国産第1号は1913年の大阪「通天閣」、日本最初のエレベータガールは1929年の上野・松坂屋である。


電子メールのアドレスに最初に@を使ったのは、Bolt Beranek & Newman社でアメリカ国防総省の仕事をしていたトムリンソンで、15台のコンピュータネットワーク間でファイルを転送するインターネット技術を研究していた。1972年に世界初の電子メールをコンピュータどうしで送信したときのメールアドレスは、tomlinson@bbn-tenexaで、@を使った理由について彼は“at some other host ”(ローカルではなく他にホストがある)という意味を込めたといっている。


 「トランク」の最初の意味は木の幹のことで、木をくり抜いた木箱がヨーロッパの貴族の間で流行した旅行用大型鞄の元祖だそうだ。その後、世界の高級ブランドになったトランクが次々と登場した。旅行といえば新幹線の先頭車のデザインは見事だが、実はトンネルが多いという地形上の制約から生まれた単なる空力特性だけではない日本独自の究極設計だそうで、それをつくる生産技術も大いに進歩した。


全テーマを紹介できないのは残念だが、こんなふうに身近で面白い話題が数ページずつ紹介されていて、どのページを開いてもわかりやすい表現と正確な記述から著者の力量が十分に伝わる。クリップやねじの形、ドーナツの穴はどうしてできたか…。帯のコピー「カタチには“ワケ”がある」は、確かに本書の内容を表現し得て妙である。


(本屋学問 2014年6月13日)

世界十五大哲学/大井 正 寺沢恒信(PHP文庫 本体1,000円)


15大哲学者は、①ソクラテス、②プラトン、③アリストテレス、④トマス・アクィナス、⑤デカルト、⑥ロック、⑦ディドロ、⑧カント、⑨ヘーゲル、⑩キルケゴール、⑪マルクス、エンゲルス、⑫チェルヌィシェフスキー、⑬中江兆民、⑭デユーイ、⑮サルトル。主な時代と哲学を概観すれば次のとおりである。

1.ギリシャにおける哲学思想

原始宗教的世界観にかわって物質的なものが根本的、第一次的原理だとする唯物論的世界観を唱えるタレス(ギリシァ、BC624-656頃)など、自然主義の思索家たちが現れた。それに異を唱えたのが哲学元祖ソクラテス(BC469-399)と弟子プラトン(BC427-347)、さらにその弟子アリストテレス(BC384-322)で、ソクラテスは、「自覚的実践の主体としての人間を考えるのが哲学だ」と言った。


2.ヨーロッパ中世における哲学思想

キリスト教の「スコラ哲学」が生まれ「普遍論争」がなされた。「普遍(たとえば“人間”)は個物(たとえば“人”)に先立って存在する」というのが「実念論」である。これに対して、個物が先に存在していて、普遍はたんなる名称か抽象の産物であるとするのが「唯名論」である。教会の説く “父と子と聖霊”は三位一体の一神論で実念論を前提とする。唯名論では三つは独立して三神論となり異端とされた。


アラブ哲学に「二元論」と「二重真理説」が出た。前者は、物質的世界を認める一方で非物質的な霊魂、神の存在も認めた。後者は、哲学と宗教の背反はありうるとして、哲学の霊魂拒否と神学の霊魂不滅を認めた。スコラ哲学のトマス・アクイナス(1225-1274)は、理性と信仰は相互に補完するとした。


3.ルネッサンス期(14-16世紀)の哲学思想

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、迷信を批判し唯物論をとった。マキャベリズムのマキャヴェルリ(1496-1527)、ユートピア思想のカンパネラ(1568-1639)、宗教革命のマルチン・ルターが出た。


4.市民社会成立期の哲学思想

フランスのルネ・デカルト(1596-1650)は、「生得観念」論で、「我の本性そのものから」出てくる永遠、不変なる観念だとしたが、その存在について論争になった。


5.19世紀資本主義諸国の哲学思想

ドイツ観念論のカント(1724-1804)は、形而上学(個々の存在物を超えた存在―たとえば神、経験的、実証的に捉え難い存在一般についての理論)の新生を目指し、ヘーゲル(1770-1831)は、弁証法(対話によって対立から統一された高い見解を得る手法)を体系的に叙述した。急進的な“青年ヘーゲル派”から、マルクス(1818-1883)とエンゲルス(1820-1895)が現れ「弁証法的唯物論」を完成させ、イギリスではアダム・スミス(1723-1790)とディヴィット・リカード(1772-1823)が古典派経済学を建設し自由競争を擁護した。


 わが国では、「明治憲法」や「教育勅語」で自由民権運動や外来思想にブレーキがかけられた。加藤弘之や井上哲次郎によってドイツ観念論哲学が講壇哲学の中心となった。これを批判し、唯物論、無神論で“虚無海上一孤船”のニヒリズムを説いた中江兆民(1847-1901)が現れた。


 6.帝国主義と社会主義革命の時代における哲学思想

 ドイツでマルティン・ハイデッカー(1889-1976)、カール・ヤスパース(1883-1969)、フランスでジャン・ポール・サルトル(1905-1980)が出て、実存主義が発展した。アメリカでは、プラグマティズム(実用主義)がチャールズ・サンダース・パース(1839-1914)らによって掲げられた。


ロシアでは、ブレハーノフ(1856-1918)によってマルクス主義が移入され、レーニン(1870-1924)によって定着し、1917年の社会主義大革命を経て、スターリン(1879-1953)、中国の毛沢東で進化した。


 日本では、西田幾多郎は、東洋思想と西洋哲学を結びつけ、神秘化された弁証法を展開した。西田門下を中心に三木清、戸坂潤、古在由重、永田宏志らがでた。


(山勘 2014年7月23日)

エネルギーとコストのからくり/大久保泰邦(平凡社2014年4月発行) 


表紙の裏に、「石油は枯渇しないけれど、使えなくなる!?」

「日本は資源小国ではない」

「太規模農業はできなくなる」などなど、

エネルギーのコストパーフォンマンスを知ることで今まで分からなかった社会のしくみが見えてくる。とあります。


 個々の内容も多岐にわたっていたので、ほんの一部を取り上げました。


一つは、安いからといって外国産を買っていませんかという問いがありました。多少、国産の方が割高であっても国産品を買えば日本のどこかの人にお金が入り、そのお金が日本で使われ、産業も育ち、雇用も生まれます。食料品は地方で作られるので、地方が活性化されます。少し位高くても国産品を買いましょう。そうすれば経済はプラスのスパイラルが動き始めます。


あとがきには、情報を的確に捉えることが重要だが、日本では的確な情報が伝わっていない。著者が本書を書く動機でもあった。


情報はその分野の専門家からの偏った情報だけが伝わる仕組みである。


例えば、「資源量は原発100基分」と専門家はマスコミを通じて伝える。おそらく正しくて、資源量として存在していることで、人間が採れる量のことではない。実際には、がんばっても原発1基分にも当たらないかも知れない。


気になったのは、あとがきの所にさり気なく、来るべきリスクに備え行動しましょうという記述があります。


 3.11の津波・原発問題も自然淘汰と思い、石油ピークも自然淘汰の流れの中で理解するよう説いていました。的確な情報を集め行動する賢者だけが生き延びられると。それにしても、最近のTVなどマスコミも本来の使命を忘れて、見たくもない3面記事的なものだけを奪うようにして報道しているのは、的確な判断をさせないように仕向けているのか、あるいは仕向けさせられているのかと穿ってしまう。


インターネットのYouTubeなどで目を見張る情報を知るにつけマスコミの情報に疑問をもってしまうからである。


具体的な時期、数字は覚えていないが、ビル・ゲイツが言っていた、地球上の人口は今後増え続けるので、どこかで自然淘汰して、人口を減らさなければならないという動きのあることを本著者もあるいはご存じで、あえてこのような警告を差し障りない範囲で纏められたのではないかと思った。


 以前本の会でも話題になったエイズの問題、今のワクチンの問題、TPP、遺伝子組み換え、9.11事件も、3.11津波・原発事件、今回のマレーシア機追撃事件なども根底で一つに繋がっているという見方のあることも知りました。


(ジョンレノ・ホツマ 2014年7月23日)

雑草のはなし 見つけ方、たのしみ方/田中 修(中公新書 本体840円 2007年3月25日初版 2013年8月10日9版


著者プロフィール  47年 京都生まれ。 京都大学農学部卒業。同大学院博士課程修了。

スミソニアン研究所博士研究員などを経て、現在 甲南大学理工学部教授。

農学博士 専攻:植物生理学

著書:「ふしぎの植物学」(中公新書 2003)

       「つぼみたちの生涯」(中公新書 2000)

       「都会の花と木」(中公新書 2009)

       「植物はすごい」(中公新書2012)など多数

目次

はじめに

第一章  春を彩る雑草たち

第二章  初夏に映える緑の葉っぱ

第三章  夏を賑わす雑草たち

第四章  秋を魅せる花々と葉っぱ

第五章  秋の実りと冬の寒さの中で


「芝草管理技術者」はにわか勉強で合格したが、それゆえに現場の経験が乏しく、中でも弱いのが「農薬」と「雑草」である。


 近年の農薬は優れていて、農地やゴルフ場、或いはその環境を汚染するようなことは殆どない、と言って良いし、使用方法は、指定農薬についてWEBで調べれば簡単にわかる。


 しかし、雑草とその駆除については困った問題がある。それは、雑草の名前を特定することである。農業や園芸の現場経験が豊富であれば、一目見て雑草の名前を特定し、除草剤の処方についてはWEBで調べれば対処が可能であるが、いかんせん現場経験の少ない私は名前を特定できる雑草の数は知れている。


尤も、今取り組んでいる「校庭芝生」管理では、雑草を気にする必要はなく、刈りこみを適切に(頻繁に)行えば、雑草の成長を抑えることが出来て、それを続けると死滅するのが大半であるから、実用上は問題にはならないのであるが。 しかし、ときに得体の知れない(名前のわからない)雑草に出くわすと、やはり一抹の不安は残る。

そこで、活動を開始してから、この種の文庫本(芝管理に出動する時に携帯する必要から)を探していた次第。

この本を気に入ったのは、日常の環境において見かける四季の雑草について、カラー写真で紹介し、特徴や名前の由来、それにまつわるエピソードなど、著者の蘊蓄が随所に見られて楽しい一冊であるから。


「雑草と言う草はない」と何かの本で読んだことがあるが、この本を片手に雑草名を特定するのもまた楽しいことだと分かった。雑草は多くの方が、庭での草取りに汗を流して、あまり良い印象はない筈なので、以下にコラム風に紹介するに止める。


「悩ましい左巻きと右巻き」

 アサガオはみな同じ方向に弦が絡んで成長する。一般に右巻きと言われる。これは、下から眺め基部から先端の方へ指を回してたどると、弦は時計の針と同じ回りながら上に伸びる。時計の針は右回りといわれる。だから右巻きである。上から見て指をたどれば、逆に左巻きと言える。アサガオのたちばで考えれば、自分の弦の左側面を棒や紐にくっつけるように回り込みながら、巻きついて上に伸びる。これは、弦が棒や紐に左回りに巻きついていることになる。この立場からすると「アサガオの弦は、左巻きである」という言い方が的を射ている。


「月見草は何故夕方咲く」

 日暮れに咲き、翌朝には萎れかかっているじゃ、受粉を媒介する昆虫はいない筈。と思うのは素人考えのようで、スズメガなどは夕方から朝の9時頃までが活動の時間である。だから受粉に心配は不要ということ。


「ここは練習場か?」

これはこの本には書いてないことです。昔の話になりますが、国際試合で欧州からサッカーチームが国立競技場に来た時に多くの選手から「ここは競技場じゃなく、練習場か?」と言われたそうです。当時の国立競技場は夏芝しか植生されていなかったので、秋から春にかけて「枯れ芝」でした。一年中、緑の芝に覆われている欧州のサッカー場で育った彼らには、国立とは言えサッカー場には見えなかったようです。今は真冬でも緑ですね。これは「オーバーシード」といって、秋口に冬芝の種を夏芝の中に撒くことによって、冬季も豊かな緑の芝生におおわれています。小中学校の芝生もこのテクニックを使って、夏も冬も芝生で覆われるように管理をしている訳です。


(恵比寿っさん 2014年7月25日)

 自転車に乗る漱石-100年前のロンドン/清水一嘉(朝日選書689 2001年12月 本体1400円)


 夏目漱石は33歳の年(明治33年)に、英文学研究のためイギリス留学を命じられ、2年あまりロンドンに滞在した。到着から一年間の日記(後半は神経衰弱となり記述せず)が後年出版された。本書は英文学者である著者が、その日記を元に、漱石の目を通してその当時のロンドンを再現したものである。


  著者は日記を現代語に置き換えるだけではなく、それに関連する資料を集め、当時の社会・風習・日常生活などを総合的に解説し、現代の我々にもよく理解できるように工夫している。これを読むとタイムマシンで時代を100年遡り、ロンドンの巷を漱石と連れ立って散策しているような気分になる。


  内容は「鳶色の霧」、「ヴィクトリア女王死す」など、数ページから十数ページの24章に分かれ、どこから読み始めどこで終わってもよい。電車の中で読むのに好都合だ。


  「ウチノ女達ハ一日ニ五度食事ヲスル」は、本書の中で最も長い38ページを費やし、イギリスの食事の歴史から説き起こし、当時の上流中流下層それぞれの社会階級の食習慣に至るまで、事細かに記述している。日に5回の食事も、当時の過酷な長時間労働から生じたことが理解できた。


  表題となった「自転車に乗る漱石」は、本書の中で二番目に長い26ページを使い、漱石が下宿の家主に勧められ、自転車乗りの練習をする有様を滑稽に描いた章。ここで著者は、19世紀末に登場した空気タイヤ、ダイヤモンド型フレーム、後輪チェーン駆動を組み合わせた近代的自転車が、如何に急速に普及し、それがイギリス社会を変革したかを述べている。まず自転車に乗るために婦人服が変わり、女性解放・男女平等の思想に発展し、遂には社会的革命を齎した。説明の流れは滑らかで強い説得力がある。


  漱石は官費留学ではあるが、給費は潤沢ではなく、その中から高価な書籍まで買うのだから、下層階級に近い生活を余儀なくされた。しかし、そのため当時のロンドン庶民の実生活を見聞できたとも言えよう。「地下鉄に乗る」は、漱石が当時完成したばかりの電化された地下鉄(漱石の言葉では地下電気)を利用する話だ。21世紀の今日も、当時の路線や駅名がそのまま残っているのは面白い。


 上流も下層も当時のロンドン市民を等しく苦しめたのは公害問題だ。


  「1月3日 倫敦ノ街ニテ霧アル日太陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラスハ見ル能ハサラン。「1月4日 倫敦ノ街ヲ散歩シテ試ミニ痰ヲ吐キテ見ヨ真黒ナル塊リノ出ルニ驚クヘシ何百万ノ市民ハ此煤煙ト此塵埃ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツツアルナリ我ナカラ鼻ヲカミ痰スルトキハ気ノ引ケルホト気味悪キナリ」


  と漱石が日記に記したように、当時スモッグは市民の健康を蝕んでいた。しかし、人々は煙突の煙を繁栄の象徴として、また霧に霞む街並みを一種の風情として受容していたようだ。その後冬の濃霧は1952年12月、4000人のロンドン市民が死亡する惨事を引き起こし、その結果大気清浄化法案が成立し、スモッグが完全に消えたのは、漱石の時代より半世紀以上後の1962年であった。


  戦前の日本も昼なお暗き貧民窟が存在し、戦後の高度成長期には様々な公害問題に悩まされたことを思うと、イギリスも日本もまったく同じ軌跡を辿ったように見える。イギリスの自転車普及の初期には、女性サイクリストに対する社会の拒否反応が強かった由。これを読んで、昭和30年代私の母と妹が車の運転を始めた頃、しばしば男性ドライバーから嫌がらせを受けたことを思い出す。わが国でイギリスの自転車に対応するのは、自動車であると思う。「山深い集落にまで救急車を・・」と道路を改良すると、すぐに若者たちは車で町に降りて働くようになり、やがてそちらに移り住む。かくしてわが国古来の村社会は崩壊し、それと一緒に安定した社会秩序も消え失せる。


  私にとって本書は、19世紀末から20世紀初頭のロンドン社会に、タイムトラベルしたような感興をそそられると同時に、現代社会に至る過程を考察するきっかけともなった。知的好奇心を満足させる一冊として皆様にお勧めしたい。


(狸吉 2014年7月26日)

 エッセイ 

新時代の電機業界


日本の高度成長時代に言われた事だが、日本国内には電機メーカーの企業数が多すぎると言われていたあの高度成長時代に、日本ビクターの様な中堅メーカー企業であったものが、今では姿を消している企業の数は少なくないのであるが、その結果、日本の電機メーカー企業は適正な数に収まったかと問えば、まだまだ多いといわざるを得ないだろう。そして、今残っている企業の決算はどうか、利益を出したとか、改善されたなどと言われている企業も多いなかで、大方の実態はリストラや資産売却で形を整えているといっても過言ではないだろう。


新しいイノベーションによる新しい成長産業を見出し、それが売り上げに寄与している状況でないと企業戦略として不十分であり、健全な企業活動による業績改善とは言えないのである。


この現象は、家電や弱電企業に限った事ではなく、重電機メーカーに付いても同じと言える。米国で重電機企業と言えば、ダントツのGE以外に目につくものは無い。ヨーロッパでもシーメンス、アルストムぐらいである。これらの会社は、日立や三菱重工の何倍もの売上高と利益を生み出している。


グローバル時代と言われ、世界の企業と伍して行かなければならない日本企業にとって、日立、三菱重工、東芝と言う様に未だに企業の数が多い。それらの個々の売り上げは、GEの何倍もの差がある状況のもとで、世界の電力事業におけるGE、シーメンス、アルストムといったメジャープレーヤーの戦いに日立が割って入る隙は殆ど無いといわれている。この状況に至っても、日立と三菱が合併などと言うことは、今の業界常識では全く考えられない。それでも、世界に打って出なければグローバル世界で生きてゆくのは難しいのである。


嘗ての恐竜時代は、弱肉強食で体の大きなものが残って行き、その結果、恐竜はその大きさの故に滅びたと言われている。成長を求めるのが資本主義ならば、グローバル時代の資本主義は、限り無く大きさを求め成長しなければならない事になる。


グローバル時代の企業競争を見ていると、それはまるで恐竜の轍を踏む愚かさが思いやられる。しかし、ここは人間様の世界である。新しいイノベーションによる成長産業を生み出し続けて来た過去の実績を忘れてなるまい。それに倣って、新時代の産業革命を期待するのであるが、しかしながら、経済発展の伸びシロが問題視されて久しい。


ここに、現代資本主義経済の実態を観るのであるが、現代の人間様達のご覚悟は如何に。


(致智望 2014年7月14日)

絵の見方・描き方の深み


私の所属する新協美術会の展覧会やほかのグループ展などをよく見に来てくださる山中一氏は、“ド素人の鑑賞評”などと言いながら、温かくも手厳しい絵画評を寄せてくれる。


今回は、6月の新協東京支部展をご夫妻で観にきてくださった。いただいた“鑑賞評”は手書きで便箋7枚。さらに今回は奥様からも便箋3枚の達筆で格調高い評をいただいた。


出品作の中で、裸婦を花に見立てた作品について氏は、花ならばなんの花かと「知る限りの花を頭に浮かべ」、消去法で考えてユリに行き着く。「でも古来日本にあったユリではなく外来種で、それは花が下を向いておらず上を向いています」。絵とユリのイメージをたっぷりと語った上で、この絵は「生きているユリではない」感じで「生の喜び」がない、という。


多く目に付いた「裸婦」について、「今回の裸婦は私(男)にとってあまり魅力的ではありません」。裸婦像はやはり「ゴボウ」より「ダイコン」のほうがいいという。ただし一点の裸婦画のみ、「ふくよかで薄ギヌをまとった」姿はオーラが溢れていて「嬉しい限りです」。


風景画ついて、「朝、昼、夕、晴天、曇天で自然の色合いはものすごく違います」。しかも「眼前の自然は同じでも画く心によって画布に現れてくる絵は違ってくるでしょう」。だから「いつの絵にするかが大切なように思います」。「下手でも感激のある絵はあります」。


さて私の拙作、画題は「何処へ行く」。構図は老人と中年女性の膝から上の立ちポーズ。背中合わせほどではないが、やや斜め向きながら左右それぞれの方向を向いている。老人は三角な目で右前方の中空を見上げ、女性はまっすぐに左前方を見つめている。


山崎さんの題名は「何処へ行く」でした。「何処へ」ではなく「行く」がついているところに深い意味を感じました。これまでの絵には、過去、現在、未来があったように思いますが、今回の絵は現在、そして未来があるのかないのか。男性はポケットに手をいれ、立ち上がってはみたが、さて何処へ行こうか。私たちの年齢になると、今日何をしようかと考えるのです。つまりすることがない。行くところがなくなるのです。出かける服装はしてきたが、ゆくところが決まっているわけではない?あそこは昨日行った。今日行ったところで同じ。“あてもなく”決まったコースを五千歩ほど歩き、あとは帰ってTVを見て、酒を飲んで寝る。そうして今日も一日生きた。明日は今日の続き。未来は考えても仕様がない。そうした日々が続きます。だが女性はそうした生き方に背を向けている。私には張りのある今日があり、そして未来がある。過去は振り向かない。今日をしっかり生き、そして明日も!といったストーリーが見えましたと中山氏は言い、「充実した今日」の難しさや生きる意味を考える。


いきなりだが、美術年鑑社の油井一人社長がこの絵を見て、私の顔を振り向いて、後ろの絵を指差しながら一言。「どうしたの?」


 奥様の、拙作についての論評。紙数が尽きたのでポイントだけ紹介すると、「現代の孤独感、虚無感が感じられます。文字が思考を促すように、絵は感覚的でありながら一瞬にして思索できるという、絵画の深奥な可能性に驚きました」と望外の評をいただいた。


最後に一般論だが、絵画の見方には2つの方法があると思う。“ド素人”と自称する山中氏の場合は厳しい“自然観”からの視点に特長がある。こうした自然主義的、感覚的な見方に対して、絵画技法的な見方、線、面、色彩、構成、マチエール(絵肌)などからの見方がある。後者は必ずしも自然や実物にこだわらないところがあり、えてして前者の自然派と意見を異にする。“自然派”と“技巧派”、どちらも重要であることは論をまたない。


(山勘 2014年7月23日)

続卑弥呼と邪馬台国


先月のホツマ・エッセイで、豊受神がなぜ仙台から今の伊勢に宮が移ったかという疑問がありました。ホツマツタヱを読み直し、経緯が理解できましたので、忘れない内に投稿します。


仙台、日高見で政治を執られていた豊受神は、全国の要所に人員を派遣しますが、特に「ちたる国」(山陰地方)は役人が政務を怠り治まりが付かなくなったので、本人自らが対策に行かれます。日高見(仙台)は「やそきね」が、「たかきね」は天照神の補佐(富士山の麓)、筑紫(九州・宮崎)は「つきよみ」と「かなざき」が治めることになりました。


しかし、豊受神は「あさひ宮」(丹後)でお亡くなりになります。


多分、この当時においても、大陸からの勢力争いというか渡来人との間で諍いがあったのではないかと思われます。


その後、天照神は豊受神を祀るため丹後の「あさひ宮」に行かれます。天照神は遺言で豊受神と同じ場所に埋葬されることを望まれます。


丹後の「あさひ宮」に行かれた天照神は、新しい宮にふさわしい所を探すために、「ひのはやひこ」に日本全国の絵地図を作るように命令します。


そして、伊勢の風景が良く、そこに新しく宮を造るよう「おもいかね」に命じます。「いさわ」(伊雑宮・志摩郡磯部町)に遷都します。


後世になって斎女がこのお二人の御霊が祀られていた「あさひ宮」から伊勢に移されます。そして現在に至っています。


もう一つ別件ですが、鳥居の語源の説明をいたしたく。


先月、敷居・鴨居を「やまた居」(山の宝のある所・邪馬台国)の「居」の説明のために例として出しました。鳥居も同じ「居」なのですが、ホツマ以外この言葉の語源について触れられてないことを思い出しました。


文字通り、鳥の居る所というのが鳥居になります。先月「鳥居」という立派な本を図書館で読みましたが、詳しく写真が載せられているものの、鳥居の語源については全く触れていませんでした。


神社には東の門にあたる所が鳥居であり、鳥居に鳥を飼うことで鳥に日の出を気が付かせて鳴くことにより、神が最初に気が付く場所、門・鳥居であったこととあります。


八将神(やまさ)は、民のために「からふしま」を祭り、鳥より先に神が知る「しま」(門・州・神の居所、目印)は、鳥居にあります。


「からふ」(羅生門)のところにいる、ニワトリは暁(か・朝日)を受けて鳴き、「つあ」を返します。(告げ返す・天に返事する) いつもここに鳥がいれば、民が飢え死にせず、食料に事足りているということに気づかせてもらえるからです。民は鳥が居る(鳥居)ことで神のいたわりを知ることになります。


(ジョンレノ・ホツマ 2014年7月23日)

 桃李もの言わざれども…


新幹線が営業運転を始めて今年でちょうど50年。徹底した安全設計と快適な乗心地、速度向上、定時運行をひたすら追求した結果、開業以来一人の死者を出すことも衝突事故を起こすこともなく、世界一安全な高速鉄道としての地位を築いた。


フランスの国鉄総裁をして「日本の新幹線は世界の鉄道を救った」といわしめた新幹線神話は、現代最高の鉄道技術と性能、安全性を世界に示した。日本の技術陣は、斜陽産業といわれた鉄道に明るい未来を描いて見せたのである。浮世絵がフランス近代絵画に影響を与えたように、新幹線がフランスのTGVやドイツの高速鉄道に大いに刺激を与えたことは確かである。


一口に“50年”といっても、毎日の運行管理を始め、車両の保守点検、保線、乗員や作業員の訓練、地震、台風、風雨、雪など自然災害対策まで、当事者たちが地道な技術開発に取り組み、それこそ血の滲むような努力と苦労を積み重ねてきたこの半世紀は、世界の鉄道技術史に特筆されるべき貴重なデータベースである。


JRが国鉄だった頃、世界の鉄道関係者が来日するとまず鉄道技術研究所を訪れた。俗に“鉄研詣で”といわれた視察で彼らは異口同音に、いつの日か自分たちの国にも新幹線を誘致したいと夢を語ったそうだ。日本を訪れる世界の要人や大勢の観光客が新幹線を体験し、そのスピードと運行時間の正確さを存分に味わって、鉄道の魅力を世界中に広めた。


新幹線が営業中に脱線事故を起こしたことが一度だけある。走行中の上越新幹線を中越地震が襲い、緊急停止して複数両が脱線したが、幸いにも負傷者はなかった。震源に近い高架橋の支柱は損傷したが、脱線現場付近は阪神淡路大震災の教訓から支柱の強化工事が進められていたので、結果的に崩壊を免れたという。


このとき日本のマスコミの多くは「安全神話の崩壊」と報じたが、フランスなど高速鉄道を持つ国のメディアは、「高架橋が壊れなかったことは新幹線の安全性を裏付けた」と高く評価したそうである。


人間が経験に学ばず、注意深さと謙虚さを忘れたとき、自然は大きな戒めを与える。


アメリカのカリフォルニアで大地震が起こってハイウェイが倒壊したとき、土木技術が進んだ日本ではあり得ないと専門家が断言した直後に阪神淡路大震災が起こり、大阪や神戸の高速道路やビルが無残に倒壊した。


日本の原子力発電所は世界一安全だといった途端に東日本大震災が発生し、原子炉は制御不能になり、周囲は放射能で汚染され、避難した住民の一部はおそらく永遠に故郷に戻れなくなった。放射性物質を無害にする技術は、残念ながら人類はまだ手中にしていない。


中国の鉄道関係者が鉄道技術研究所を訪れるたびに、来客室に飾ってある新幹線の模型を欲しがったそうだが、その中国は日本から多大な技術支援を得ながら独自技術だと主張し、今や高速鉄道大国だと宣言した途端、多数の死傷者を出す衝突脱線事故を起こした。


ハードウェアとソフトウェアを巧妙に組み合わせた最新の鉄道システム技術は、日本のものづくりの輝かしい結晶であり、世界に誇る極致の製品だといっても過言ではない。数年前、鉄道発祥の地イギリスに日本の最新鉄道システムが輸出されたというニュースは、かつて鉄道先進国イギリスに教えを請うた歴史を知る日本人にとっては、感慨この上ないものがある。


ヨーロッパと同じくらい長い鉄道の歴史を持つアメリカでも現在、大規模な高速鉄道網計画があり、日本、フランス、ドイツが激しい売込み合戦に鎬を削っているが、日本が開発した最先端リニア鉄道システムも有望視されている。


自動車、家電製品、カメラ、時計…。数々のメイド・イン・ジャパンが世界を席巻して久しいが、どの製品も実際に消費者が使ってみなければその良さはわからない。しかし、日本で実際に乗ってみなければ決して実感できない日本の鉄道がなぜこんなに注目されるのだろうか。


ことさら世界にアピールしてきたわけではないが、その実績が評価されて今や世界中から熱い視線を送られる日本の鉄道システム。時代は変わっても、鉄道が重要な社会基盤であることに変わりはない。新幹線が新しい輸出ブランドの目玉になる日は来るのか。


「桃李もの言わざれども 下自ずから蹊をなす」

桃や李(スモモ)は何もいわないが、花や実の美しさにたくさんの人々がやってくるので、木の下には自然に小径ができる。徳望のある人は弁舌を用いなくとも、その徳を慕って多くの人々が集まるという意味である。


声高に主義主張することはせず、ただ黙々と成果を上げる。日本人の精神構造、ものづくり気質を言い得て妙ではないか。ただ、最近の日本は少し違ってきたかもしれないが。


原典は『史記』の「桃李不言 下自成蹊」である。中国にも、改めてこの言葉を味わい直してもらいたいものである。


(本屋学問 2014年7月25日)