例会報告
第46回「ノホホンの会」報告

2015年6月16日(火)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)


全員参加で活気ある議論が戻ってきました。さて、「ギリシャ危機」ではないですが、国家が破産する時代です。21世紀は世界の劣化が進んでテロ国家が台頭し、日本の国民も政治もマスコミも大学もすっかり駄目になってしまいました。誰か賢人が現われて、日本再生の有効な処方箋を示して欲しいものです。引き続き、積極的な投稿をお待ちします。



(今月の書感)

「後藤新平―大震災と帝都復興」(その2)(本屋学問)/「習近平の肖像 スターリン的独裁者の精神分析」(恵比寿っさん)/「日本戦後史論」(山勘)

(今月のネットエッセイ)

「ギリシャ危機」(致智望)/「歌は心を洗う」(ジョンレノ・ホツマ)/「体験入門“前立腺癌”の巻」(山勘)/「平和ボケした日本のマスコミ」(山勘)/「IT技術の光と影」(狸吉)/「ほしいです。お金 ください。」(高幡童子)


(事務局)

 書 感

後藤新平―大震災と帝都復興/越澤 明(筑摩書房 2011年11月10日 本体900円)

(その2

後藤新平が東京市長を辞めて5か月後の1923年9月1日、関東大震災が起こる。ちょうど山本権兵衛内閣が組閣中で、再び内務大臣になった後藤は「帝都復興院」総裁を兼任、①遷都しない、②復興費は30億円、③欧米の最新の都市計画を適用する、④都市計画実施のために地主に遠慮しない、という復興原案を自ら数日で作成したという。


震災で焼失した全土地を50億円で買い上げるという後藤の構想はさすがに却下されたが、台湾と満州時代に育てた都市計画専門家を総動員し、“復旧”ではなく“復興”だと宣言して首都再生プランを陣頭指揮した。著者は、都市計画法公布や人材養成、都市研究会設立など、最初の内務大臣と市長時代の6年間に布石を打ってきた後藤のアイデアが効果的に作用したと書いている。


本書によれば、焼失面積の割合は神田、日本橋、浅草、本所各区で94〜99%、京橋区86%、深川区77%、下谷区49%で、台地と旧大名屋敷が多かった麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川各区は2%以下だったが、東京市全体で市域面積の42%が焼失した。世界の都市火災は、サンフランシスコ大火とシカゴ大火を除けば第1位から8位まですべて日本の都市で発生していて、関東大震災は戦前では世界最悪の都市火災だったそうだ。

日本の政治経済の中枢である東京の霞が関や丸の内、日比谷、大手町一帯は明治期に官有地となった旧大名屋敷がほとんどで、他にも寺社の境内など転用可能な用地がたくさんあり、明治政府は近代国家の首都に必要な本格的なインフラ整備をせずに済んできた。そのため当時の政府首脳には社会資本を整備するという発想や都市計画の意識が低く、そうした近代都市づくりの概念の欠如が結果的に大惨事を招いたと著者は分析している。


当初の帝都復興予算政府原案10億円は、帝国議会の反対で最終的に6億円弱に削減されるが、本書によればそれも単純な財政上の問題ではなかったようだ。区画整理で土地を失う地主には貴族院議員もいて、とくに銀座の大地主でもあった枢密院顧問の伊東巳代治らは、区画整理は自治体でやるべきと強硬に反対した。さらに後藤内閣の可能性もあった時期、高橋是清(政友会)や加藤高明(憲政会)なども後藤を潰しにかかる。財界も賛成派は渋沢栄一くらいで、枢密院や二大政党の長老たちは首都復興という国家の一大事を放り出して政争に明け暮れた。今も昔も政治家の質はこんな程度なのか。


著者はこれを“政治的嫉妬”と表現しているが、中小地主と同じ発想で長期的視点を持たない政治家たちによって復興費が大幅に減らされた結果、計画した幹線道路の大部分は幅員縮小を余儀なくされ、東京築港も断念せざるを得なかった。本来は道路が必要だったところに道路がつくられず、木造密集市街地は区画整理できずに残った。もし、当初の計画通り大規模な都市整備が行なわれていたら、東京大空襲であのような悲惨な火災被害はなかったと著者はいう。


それでも昭和、永代、晴海、国際、八重洲、日比谷、新大橋通りなど都心と下町の主要道路、同潤会アパートや不燃構造小学校、そして日本初のリバーサイドパークである墨田公園、錦糸公園、浜町公園、横浜の山下公園などが復興で誕生した。復興計画に対する当時の政界と議会の無理解を考えると、復興事業の骨格部分だけでも実現できたことは奇跡で、震災で消失した区域の90%に相当する3,119Haが区画整理された。これは世界の都市計画上例のない大規模な既成市街地改造で、後藤の業績や計画と苦悩の歴史、帝都復興遺産について教育現場でもっと教える必要があると著者は強調している。


一方で、今も東京に木造密集住宅地が残る歴史的原因は帝都復興計画の縮小であり、第二次大戦後の戦災復興計画もその大半を中止したため、戦後復興計画も大失敗だったと著者はいう。震災復興遺産を継承するどころか、昭和通りの緑地帯撤去や日本橋、墨田公園の遊歩道を潰した首都高速道路建設などはその典型といえ、結果的に水辺空間が失われた。今後は、民間活力を生かしながら中長期的な東京の再生とまちづくりを進めるべきと著者は提案している。


帝都復興で日比谷公園や明治神宮内苑を設計し「公園の父」といわれた農学の本多静六は、「あらゆる一芸一能、一癖ある人物を隔意なく近づけ、各人の長所と短所、持ち駒を調べて、有事のときに有用な人材をそれとばかりに活用、利用する天才で、人を使い、動かす包容力と器量がきわめて大きかった。これが、ついには伯爵までになった最大要素だ」と後藤を評した。後藤がこれらの“持ち駒”を総動員して取り組んだ最大のプロジェクトが帝都復興だった。

大正、昭和を通じて後藤ほど都市計画に情熱を注いだ政治家はいない、関東大震災後の帝都復興の実現は、後藤の強い意欲と指導力によって初めて達成された、後藤は都市計画の父であり、近代東京をつくった大恩人であり、後藤の後を継いだ人材も優秀だったと著者はいっている。


後藤は東京市長時代、元コロンビア大学教授でニューヨーク市政の科学的調査などで知られる高名な歴史学者、政治学者のビアードを招請し、東京の市政調査を依頼した。関東大震災後に再度招き、「新街路を決める」、「街路決定前の建築を禁止」、「鉄道駅の統一」で考えが一致したという。伊東らの復興予算削減に大反対したビアードが後藤に宛てた書簡が紹介されているが、彼が後藤の見識と構想の見事さを正しく評価していて興味深い。


「世界の眼は皆後藤の上にある。後藤がもしこの次に災禍の再発を阻止するために必要な大計画を樹立し、かつ大計画を死守できなければ、大危機の要求する期待に背いてしまう。すべての歴史家は1666年にロンドンを計画したサー・クリストファー・レンの名を筆にするが、彼の大計画の執行を妨害した偏執小心の国会議員の名を忘れ去った。貴下がかくのごとき計画を作成し、かつこれを実行すれば、日本国民は貴下の先見と不屈の勇気のゆえに貴下を記憶するであろう。公園に遊ぶ児童さえも、貴下を祝福するであろう。1000年後の歴史家たちもまた貴下を祝福する」


1983年に昭和天皇が述べた「後藤が非常に膨大な復興計画を立てたが、もしそれが実行されていたら戦災が少しは軽く済んだのではないか。後藤のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念に思う」という言葉を後藤が聞いたら、どのような表情を浮かべただろうか。


「東京人にとって、後藤新平という人を持てたことは幸運である。しかし、後藤新平しかいなかったということは実に不幸である」。著者はこう結んでいるが、東日本大震災後の復旧・復興の取組みの現状を見ると、関東大震災や三陸津波、戦災、阪神・淡路大震災など過去の大災害の経験が蓄積され、参考にされているとはいい難いという。世間ではあまり認識されていないが、現在も都市計画を軽視する政策にあることは明らかで、将来また同じような災害が起こったとき、後藤のような人物がいないことは日本にとってさらに不幸なことかもしれない。


震災復興計画の圧縮で、副都心形成と交通計画の原型といわれた池袋、新宿、渋谷、目黒と都心部を結ぶ幹線道路、その下に地下鉄を通すという計画は実現しなかったが、戦後の白山通り、春日通り、新宿通り、六本木通りなどの拡幅・新設のための用地買収に多大な労力と費用と時間がかかったことを考えると、“国家百年の計”の意味、政治家の役割の大きさを改めて考えざるを得ない。


本書は最後に、東京・麻布の後藤新平邸が満州国成立後に大使館として提供され、戦後は中華民国大使館、さらに現在の中国大使館になったというエピソードを紹介しているが、歴史の偶然とはいえソ連や中国とも積極的に友好関係を進めた国際政治家としての後藤のスケールの大きさを示しているようで感慨深い。


(本屋学問 2015年6月2日

 

習近平の肖像 スターリン的独裁者の精神分析/崔虎敏著・宇田川啓介訳・解説(飛鳥新社 本体1,111円


著者略歴 1956年河北省生まれ。

1982年北京大学卒業、その後中国共産党に入党し、地方官僚を歴任。主に対外貿易合作委員会や外務関連の仕事を行い、日本や諸外国の投資案件の調整や許認可に関する業務につく。その間日本との関係を深め、日本人の友人も多数いる。現在、国務院所属。

解説者略歴 1969年東京都生まれ。


1994年中央大学法学部卒業、マイカルに入社。法務部にて企業交渉を担当。合弁会社ワーナー・マイカルの運営、1995年に破綻した京都厚生会の買収、98年に初の海外店舗「マイカル大連」出展、99年開業のショッピングセンター小樽ベイシティ(現ウイングベイ小樽)の開発などに携わる。マイカル破たん後に国会新聞社に入社、編集次長を務めた。著書に「民主党の闇」、「2014年中国は崩壊する」「日本人が知らない『新聞』の真実」、「韓国人知日派の言い分」「庄内藩幕末秘話」など。


はじめに 中国人から来た手紙(宇田川啓介

第一の手紙 尊敬する日本の友人たちへ

第二の手紙 薄煕来と習近平の違い

第三の手紙 決定的だった幼少期

第四の手紙 エリート教育を受けられなかった影響

第五の手紙 習近平の個人信条

第六の手紙 父の教えを守る

第七の手紙 共産主義という「負の遺産」

第八の手紙 人民のためでなく、父と自分のために出世する

第九の手紙 福建省で見せた行政手腕のなさ

第十の手紙 中華民族の「復興」とは何か

第十一の手紙 世界に害をなす外交下手

第十二の手紙 悪夢の始まりだった薄煕来事件

第十三の手紙 中国に未来はあるか

訳者解説

中国政治における薄煕来事件の意味

経済の実態

中華人民共和国はどこに向かうのか
①周辺の国家と戦争を起こす②経済崩壊と人民反乱③テロによる習近平その他要人の暗殺

おわりに


私は4〜5年前から、習近平は毛沢東を目指しているな、と感じていましたが、この著書によればスターリンを目指しているという。もっと恐ろしいことになるな、という実感です。何故なら毛沢東に虐げられた人民(共産党幹部も)は前例があるので、毛沢東流に対しては免疫があるからそれなりに対処は容易。スターリン流は猛威を奮うように思うからです。


本書は習近平の育ちや性格、彼の考える中国、中国共産党、中国の共産主義について考察しているが、公開が制限されている人物像に迫って、彼の素顔がそこそこ理解できたと言えます。


習近平は何の実績もないのに、出世の道を確実に進んで今がある。最大の障害である薄煕来を失脚させて今があるので、そのあたりの解説が面白い。父親の習忠勲(経済特区の発案者)はなかなかの人物(これはえべっさんの私見)なんです--

習は軍事優先と覇権主義の塊で、自己都合で法を変える人治主義であり、経済に疎いので、今後の外交や経済が混乱するという。薄煕来に同情論や冤罪論が止まないのはトップの無策で(格差の拡大など)国民の不満が蓄積し、いずれ全面爆発も考えられる。


腐敗がはびこっている中国で、腐敗を理由に多くの幹部を失脚させているが、自分の腐敗が明るみに出れば最大の汚点になるので、これが習の最大の弱点。


習の政治手法は「タブーなき権力闘争」「党を利用した腐敗撲滅」で、軍事力増強・他国を威嚇する中華思想だが、党内にも民衆の声に耳を傾け、格差拡大を放置する経済政策に反対するグループも存在するという記述には多少の未来を感じます。


まとめで、解説者は「エリートでない習近平の姿」「性格上のコンプレックス」「飽くなき権力欲」が明らかになったと述べています。やはり中国の未来は暗いですね。

なお、この著書の構成は手紙を翻訳したとあるが、著者は勿論偽名である筈で、経歴も怪しい(カムフラージュしているはず)。


はじめにもある通り、反体制派の論なので、その分は割り引いて考えなければならない。


(恵比寿っさん 2015年6月3日

日本戦後史論/内田樹×白井聡(徳間書店 1500円+税)


齢は親子ほど違う二人だが、共に今が“旬”の売れっ子論者。大学で教鞭を取る内田樹は50年生まれ、専門のフランス現代思想から、武道論、教育論、映画論など幅広い分野で著書を持つ。一方の白井聡は77年生まれ、社会学で博士号を持ち大学で教鞭をとる少壮の論客。本書でも話題の中心となる著書「永続敗戦論―戦後日本の核心」を持つ。


本書の「はじめに」、白井が、本書の対話は「真の愛国」を提示する試みだと言っている。マルクス主義の研究者だった白井が、3・11と福島原発事故を契機に「愛国」や「憂国」に改めて向き合わざるを得なかった、とも語る。


白井は、「愛国主義」には郷土愛などをベースにした「下からの」「自然なもの」である「パトリオティズム」と、国策など「上からの」「操作されたもの」である「ナショナリズム」があるという。当然、両者の対話は前者「パトリオティズム」の立場で、「ナショナリズム」的「愛国」の仮面を剥ぐ作業になる。


先回りだが、本書の「おわりに」、内田は、白井の「永続敗戦論」にふれて、日本国民が敗戦という歴史的事実を否認し続けたことによって「こんな国」になってしまったことを腑分けしてみせたと評価し、その抑制された「冷たい炎」的な文体は「白井さんが怒っているから」であり、内容は「戦後思想のちゃぶ台返し」的な過激な論考だという。その姿勢は、世代は違っても二人に共通するものである。


本書は4章からなり、第1章は「なぜ今、戦後史を見直すべきか」について、戦争を知っている戦前、戦中派は、「徹底的な敗戦」で戦意を喪失し、敗戦体験の本質を隠ぺいし、「負けてよかったじゃないか」的気分になった。しかし、戦争を知らない新しい世代は「次はアメリカに勝つために」「なぜアメリカに負けたか」を主体的に考え、「親米路線・日米同盟基軸しかない」という以外のオプションを考えるようになったという。


半面で、戦争世代にいた狡知を駆使して国益を守るとか、規格外れの若者も取り込むような「悪い親父」や「食えないおっさん」がいなくなったことを惜しみ、「顔がツルツルした人が出てきて威張っている」という。しかしその代表に安倍総理を挙げるのはどうか。


第2章「純化していく永続敗戦レジーム」では、先の戦争を指導していた人たちが戦後も支配的な地位に留まり続けるために、文句なしの敗北、敗戦をできる限りあやふやにごまかして未だに総括していない状態が続いていることを、白井は「永続敗戦レジーム」と呼ぶ。


戦後の日本が民主的な国家になったというのは虚構だと白井は言い、内田は、日本の対米自立は対米従属を通じての自立で「のれん分け」自立だという。いいかげんに「永続敗戦レジーム」「のれん分け自立」から脱却すべきだというのが二人の主張である。


第3章「否認の呪縛」では、これまで「敗戦の否認」でやってきた日本は、「何かの否認」により成り立つ国家だと言い、先の戦争は「明治維新の否認」と見ることもできるという。明治政府によって「賊軍」とされた人たちが戊辰戦争の「敗戦を否認」して「明治レジームからの脱却」を企て、明治政府が作り出したすべてを破壊して先の敗戦にいたったともいえるというわけだ。同時に先の戦争では自虐的・自滅的な作戦が選好された点も日本人の特性として注目する。


ただし、この章の最後で、日本が「アジアで孤立しているように見えるのはなぜか」について語り、日本は中韓に対して素直に謝れという主張で“意気投合”しているのは、精緻な論理を組み立てる論客二人とも思えない粗雑な論旨に驚いた。


第4章は、安倍晋三の「人間」と「政治家」キャラクターのかい離、日本がアメリカの51番目の州になるリアリティ、戦後10年間の「占領時代」の闇、などが語られる。失礼だが終盤になるほど“雑談風”で読みやすく面白くなる一書だ。


 (山勘 2015年6月13日)



 
 エッセイ 

ギリシャ危機


ギリシャの財政破綻が報じられる中で、我々の受ける印象は何とも理解に苦しむギリシャの政策である。しかし、色々な情報を総合してみると、それが、我々凡人の思考が極めて常識的な善良を規範としている所以と思う。その周辺事情を知ってみると、如何にも幼稚な我が思考に呆れる思いである。


ギリシャの首相アレクシス・チプラスと言う人物は、トルコからの移民3世でアテネ生まれ、若い時期には教育制度改革反対運動で学校を占拠するなど、過激な学生時代を過ごしたと言う。活動家上がりの政治家に有り勝ちな、実務に弱い理想主義者と相場は決まった人物で、同氏は「ポーカーも得意」と言っており、駆け引き上手を自認している。


彼の行動が過激であっても、この小国の破綻が国際経済に与える打撃は限定的と言われる。しかし、チプラス氏は革命家チェ・ゲバラを尊敬するあまり、息子のミドル・ネームをゲバラの本名エルネストと付けるなど、筋金入りの左派と言うことから、同氏が率いる政権がEUとの溝を深め、ロシア、中国と急接近する可能性があると言うから恐ろしい、中国、ロシアの覇権主義、イスラム国問題などに加えて、中東の政情不安定などを考えると、ギリシャの左化への恐怖は、私にも理解出来る。


彼は、ドイツの戦後賠償を要求したり、ギリシャ主要港ピレウス港を中国企業へ売却する可能性を示すなど、西側諸国へ揺さぶりをかけつつ、交渉期限ギリギリになると妥協をほのめかす発言もすると言うしたたかさを発揮し、容姿端麗で弱者の味方を自認すると言うから、その姿はいかにも様になると報じられている。


その彼が、「欧州で最も危険な男」と呼ばれるのもハッタリでは無いと言われるから、その実態を知れば知るほど恐ろしくなる。最近の国際情勢からは、いよいよ目が離せない。


(致智望 2015年6月11日)

歌は心を洗う


古代の人は、禊ぎは身体の穢れを落とし、歌は心を洗うと言っていました。

今回、歌の持つ偉力を実感した二つ目のケースとして、取り上げてみました。二人の間が行き詰っても、最後に解決したのが歌だったからです。

ホツマツタヱ26綾からの抜粋になります。


「ヒコホホデミ」と「トヨタマ姫」との話です。今風に言えば、波乱万丈の物語です。

ヒコホホデミは、「天孫ニニキネ」と「このはなさくや姫」との間に三つ子の末っ子として富士山の麓で生まれ、かつては山幸彦とも呼ばれていました。

一方、トヨタマ姫は九州出身で、ハデヅミ(住吉の神の孫)の娘になります。

当時、九州を治めていたヒコホホデミに、瑞穂の国(滋賀県)に居られた父親である天孫ニニキネから、「天つ日嗣」を譲る(天皇の位を引き継ぐ)ので至急戻ってくるよう伝令が入ります。


天孫ニニキネは、「天つ日嗣」を受け継いで別雷神(わけいかつちの神)となられておりましたが、「天つ日嗣」をヒコホホデミに譲ることに決めました。


天孫ニニキネは日嗣を譲ってからは大上君と称せられます。

この伝令が「おしか」(勅使)によって、筑紫(九州)の親王(おきみ)であったヒコホホデミに伝えられます。九州を治めている32神は、今までお遣いしていたため、別れることを惜しみました。しかし、日嗣が決められた以上32神は「よろとし」(万・歳)と祝いました。そして、ヒコホホデミは、筑紫(九州)から、淡海(琵琶湖)の瑞穂の宮に向けて御幸することを決めました。


志賀の浦(志賀島・博多湾)から日本海を北津(敦賀)へ舟で戻ることになりますが、その時、お妃であったトヨタマ姫は妊娠しており、臨月間近になっていました。


そこで、ヒコホホデミは一番速い「大ワニ舟」に乗り、先に行って産屋(うぶや)を作っておくことにしました。「大ワニ舟」に乗ったヒコホホデミは、志賀の浦から北の津(敦賀)に着き、上陸後、「いささわけ」(伊佐々別神社・気比大神)を経由して、滋賀県の「みつほ・瑞穂」の宮にご帰還されました。


「わけいかづち」の天君も、臣たちも共に、ヒコホホデミの無事のご帰還を喜びました。


一方、お妃(トヨタマ姫)は、生まれてくる子供のためにも、揺れが少なく乗り心地の良い「カモ舟」で北の津(敦賀)まで後から追い駈けて行くことにしました。


ヒコホホデミは北の津(敦賀)に到着するやいなや、松原に産屋を作り始めました。しかし、棟(天上部分)がまだ完成する前に妃(トヨタマ姫)を乗せた舟が到着してしまいました。臨月を迎えていた妃は、完成まで待っていられないので、そのまま産屋に入って皇子を生んでしまいました。


しかし、この妃の乗ったカモ舟は途中の渚で座礁して割れて、皆、海に落とされてしまう事故に遭います。しかし、溺れることなく、姫はお腹の中の子種を守ろうと必死で磯まで泳ぎ着きます。


その後、磯で見つけた釣り船に乗り、美保崎(島根県三保関)でワニ舟を見つけて乗ることが出来ました。そのため予定より早く到着出来ることになりました。


当時は沖合ではなく、渚に近い(海岸線に近い)ところを航行していて座礁して舟が割れてしまったのだと思います。


さて、ここから大問題が生じます。

男は産屋を覗いてはいけないと注意されていました。更に、当時、産後75日間は母体が元通りになるまで性交渉はいけないとされていました。


君(ヒコホホデミ)は、この北津の松原に涼みに来て、産屋の様子が気になったので、覗いて見ると、たまたま隙間が開いており、あられもない姿の妃の姿を間近で見てしまいました。何も着ておらず、開けっ広げて腹這いになって寝ていたからです。


見てはいけないものを見てしまい、慌てて開いていた戸を閉めてその場を立ち去りました。しかし、妃はこの物音で眠りが覚め、あられもない姿を見られた恥ずかしさで一杯になり、居ても立ってもいられなくなってしまいました。


恥ずかしさのあまり、もうここには居られないと、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、弟の「たけづみ」と産屋を後にして、遠敷(おにふ・福井県小浜市東小浜)の宮に行き着きました。


この遠敷の宮で、母(トヨタマ姫)は皇子を抱きしめ、眉・目を見つめながら、皇子に向かって、母は恥をさらしてしまい、もうここにいることは出来ないので、国に帰ります。もう二度と貴方にお目にかかることはないでしょう。 と別れの言葉を言い残し、皇子を置いて行きました。


この皇子は後に「カモヒト・ナギサタケ・ウガヤフキアワセズ」の命という長い名前を賜わり、神武天皇のお父さんになられる方です。


皇子を置き去りにしたトヨタマ姫と弟の「たけづみ」は、朽木川(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)の添って登り、山を越えようやく三日目に「わけつち山」の北側の「みずはめの社」(貴船神社)に着き、休むことが出来ました。


この事態が「みつほ」宮に伝え知らされたため、皆驚き、「ほたかみ」(穂高見・トヨタマ姫と兄弟)に、トヨタマ姫がその場所(貴船神社)から、一歩も動かないよう説得に向かわせました。

穂高見は朽木谷(滋賀県高島市朽木村・安曇川の支流)を西から南へと、山を越えて、トヨタマ姫のいる「みつは」の宮(みつはめ・貴船神社)に行き着きました。

トヨタマ姫に「瑞穂宮」に帰るよう説得しますが、ガンとして聞き入れませんでした。やむなくトヨタマ姫と一緒にいる弟の「たけづみ」に、この場所を動かないようにと言い含めて、一旦、馳せ帰りました。


心を閉ざしたトヨタマ姫の頑なな気持ちを説得するために、というよりも、日嗣の儀(大嘗祭)をとりおこなう大事な時を前に、お妃がいなければ事が進まないからです。正に緊急事態であったからです。


事態を重く見た「瑞穂宮」は、遂に九州に居るトヨタマ姫の父親の「はでつみ」とトヨタマ姫の妹の「おと玉姫」を、一番速度の速いワニ舟で上京させました。


父親と妹は、瀬戸内海を舟で西の宮に着き、そこから「やましろ」(山背国・京都・貴船神社)に到着し、娘のトヨタマ姫に会います。


父親の「はでつみ」は、君のいる「瑞穂宮」に行くよう説得しますが、トヨタマ姫は国へ帰るので上京はいたしませんと頑なに拒否しました。


トヨタマ姫は、父親に私の代わりに妹の「おと玉姫」を君に捧げてくださいと頼みました。やむなく、父親の「はでつみ」と妹の「おと玉姫」は、共に都へ上京して、このことを申し伝えました。


君(ヒコホホデミ)は、この申し出を受け入れて、妹の「おと玉姫」を妃に召上げました。


大上君は、天の日嗣を若宮(ヒコホホデミ)に捧げるため、「シノ宮」(ヒコホホデミが住まわれていた)に、お出ましになり、瑞穂宮(滋賀県)では、新治宮(茨城県)の前例に倣って「ゆき」・「すき」の宮を作り、大嘗祭をとり行いました。


君(ヒコホホデミ)は、トヨタマ姫に戻るよう説得してきましたが、「みつはめの宮」(貴船神社)を出ることはありませんでした。


明くる年になり、大上君は、わけつち山から、葵と桂の枝葉を袖に掛けてトヨタマ姫のいる貴船神社に行き着きました。


大上君は、持ってきた葉を示して、どちらも左右対称の双葉で片方が欠けている葉はありません。葵も桂も左右対称の双葉だからこそ、葵の葉であり桂の葉と言えるのです。


貴女は世を捨てて人の道を欠いているのではありませんか。と問われ、トヨタマ姫は、自分の取っていた行動に気が付き、恐れながら、人の道を欠いているとは思いませんでした。と答えます。

舟が割れて海に落ち、着ているものを脱ぎ捨て、渚を必死で泳ぎましたが、肌をさらしたあざけりを受けました。産屋では身に何もまとわないで腹這いになっている所を見られてしまい恥を更に重ねてしまいました。どうして、今更、宮に上ることが出来るでしょうか。とトヨタマ姫は答えました。


大上君は、貴女の言うことは恥でも何でもありませんよ。

勝手神が以前申されていたように、覗く恥は貴女にではなく、覗いた君が悪いのです。しかしながら、左右一対の葵桂の葉のように伊勢の道(男女の道)を得れば、「ひとい」(人の意・相手の気持ち)を悟ることになります。


葵の葉は女性を表し、桂の葉は男性を表していることが分かります。


この大上君の御幸に美穂津姫が付き添ってきておりました。

美穂津姫とはクシヒコ(コトシロヌシ・二代目大物主・通称恵比寿様)の妻です。


大上君が美穂津姫に意見を求めたところ、うなずかれ大上君に御心を痛めることはありません。君ヒコホホデミと姫(トヨタマ姫)とは、日(太陽)と月の関係のように共に睦まじくなさりますよ。なくてはならない関係です。と申されました。


これを聞いて、大上君は喜び、「たけづみ」に豊玉姫を養生させよと河合の国(京都市左京区、高野川と加茂川の合流付近)を賜わりました。


その後、大上君は、貴船神社の山奥の谷を出て、「むろつ」(兵庫県たつの市御津町室津)に着き、ここで遺言をされ、亀舟の到着を待ちました。


「むろつ」で、大上君の御幸の門出を見送り、亀舟に乗った大上君は瀬戸内海を経由して鹿児島に向い、「そお」(曽於)国の高千穂の峰に敬意を捧げました。


大上君は高千穂の峰(霧島山)から「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)の方から昇る太陽(日の霊・日の出)に向かってご来光を祈ります。そこで、この地を「ひむかう国」(日向国)と名付けました。


「ほつま国」に居られる姫(このはなさくや姫)は、「あさま」(朝間・浅間神社・富士山)から、月が沈む西の方角に向かって、月の霊にお辞儀をして敬意を捧げました。


月が西に沈むように、妃(このはなさくや姫)の御霊は、高千穂の峰(霧島山)に沈み、神となられました。このはなさくや姫は、生前、「あさまの神・浅間神社」や「子安神」と称せられました。


時同じく「いづの神」は、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」とも称せられ高千穂の峰の神となりました。西と東で遠く離れていてもお互いの方を向いて同時に神上がり(お亡くなり)しました。御霊は同じところに居られると言っているようです。


このお二人の神上がりを知ったトヨタマ姫は「わけつち山」(別雷神山)で、48日の喪に服し、その後の一周忌では御饗(みあえ)をして祀りました。


天君(ヒコホホデミ)が、このトヨタマ姫の行いを知り、天児屋根に「よりを戻す」良い方法は何かないものかを尋ね、父上と母上の時の前例があることを知り、更に美穂津姫に詳しく聞いたところ、歌を詠むことを勧められました。


そこで、早速、君(ヒコホホデミ)は、歌にしたため、その歌札を美穂津姫が自分の孫の「いそより姫」に遣わせました。


トヨタマ姫は「いそより姫」を迎え入れ、君からの歌を詠みました。


沖つ鳥 鴨着く島に

我が寝ねし 妹は忘らじ

世(夜)の事々も

沖つ鳥が餌を探し求めてさ迷い歩いているかのように、鴨舟が島に着いたとき(天下・神々から下々まで範疇にして)以来、私はずうっと貴女を探し求めているのです。


私は愛を語らい寄り添って一緒に寝たときの貴方のことは今でも忘れられません。その夜のことも一日たりとも忘れたことはありません。


「いそより姫」は、更に美穂津姫から預かった歌も詠みました。


忌みといい 汚れを絶つる

日の本の 神の心を

知るひとぞ神


出産後の忌み(穢れを避けて謹慎すること)として、穢れを断つために、身を隠してこられました。75日も過ぎ、謹慎期間は既に終わっており、晴れて日の当たる表に出られては如何ですか。


太陽の元の神は君のことであり、君の心を知る人こそ神ですよ。


この歌を受け取ったトヨタマ姫は、返し歌をしたためて、葵の葉に包み、君の歌を桂の葉に包んで、水引草で結び、文箱におさめました。


「ミヒキ草」(水引草・ミズヒキ)とは、紅白に見える花序(かじょ・赤白の花の配列)が水引に似ていて、後に寿に水引が使われるようになった原型がここにあったことを知りました。


この文箱を「いそより姫」は持ち帰り、君に捧げました


君は自ら受け取った文箱の結びをほどき、トヨタマ姫からの歌を詠みました。


沖つ鳥 鴨(天下・神々から下々まで)を治むる

君ならで 世(夜)の事々を

えやは防せがん


さ迷い歩いている沖つ鳥のように貴方が、鴨舟が島に着いた(天下・神々から下々まで範疇にされた)とき以来、貴方以外には今までさ迷ってきた私の「えや」「えやみ・疫病・心の病)を取り除いてくれる人はおりません。


このトヨタマ姫からの歌を三度詠まれた君は涙が止まらず、膝の上に置いていた葵葉に涙が落ち、裳が染まりました。この歌によって二人の気持ちが通じて、お迎いの御輿にトヨタマ姫を乗せて、宮入りし、天下晴れての中宮となられ、万人が喜びました。


今でも、歌は心を癒してくれますが、親子二代にわたって二人が結ばれた、心に響く歌と、この波乱万丈の話に感動し、ホツマ・エッセイとしてまとめてみました。


この宮入りを祝して、こ葵の御衣を錦綾織に残し、菊散(ここちり)と、山葉止色(やまはといろ・山葉留彩)の綾錦を合わせて三つを神の装いとして代々伝えられることになりました。


PS: 「天孫ニニキネ」、「わけいかづち」の天君、「いづの神」、別雷神(わけいかづち)の「すべら神」、大上君は全て同一人物です。

(ジョンレノ・ホツマ 2015年6月11日)

 体験入門“前立腺癌”の巻


この齢になって貴重な経験をしたので、前立腺癌の“体験入門記”を後に続く者のために?まとめておく。ことのはじまりは、70代も後半になり、いよいよ排尿に不都合を感じるようになったので、以前から世話になっているJR東京総合病院で診断を受けた。


医師の勧めで、前立腺の精密検査を受ける。いうまでもなく前立腺は大きな尿の袋である“膀胱”の下部に密着した栗型の臓器で、膀胱から陰茎に延びる尿道を握って筋肉の収縮により排尿を調節する。高齢者の前立腺癌はポピュラーな病だというが癌は癌である。


4月10日、各種の検査を受ける。その結果、血液検査で前立腺癌に関する主要な指標であるPSA(前立腺特異抗原)が、5.6と出た。危険度は「4未満」「4〜10」「10以上」の真ん中で「要注意」のレベルである。「10以上」は癌の疑い濃厚だが、中には、最初の検査でいきなり数百とか千以上というとてつもない数値で癌が発見されることもあるという。


したがってPSA値5.6は、さほど気になる数値ではないが、この後、触診・経直腸超音波検査を受けた結果「異常あり」と出て検査入院を勧められ、4月21日〜23日の2泊3日の入院となる。そこで「針生検」を受け、前立腺の組織から針12本で細胞を採って診断した結果「陽性」と出る。次いでCT、MRI、骨シンチ等の「病理組織検査」を受けた結果、「低分化腺癌」と宣告された。医師の説明と、にわか勉強の質問で分かった私の病状はこうだ。


いくつかある「病期(ステージ)分類」のうち、「A〜D分類」では「腫瘍が前立腺内に限局している」Bで、さらにその中のB1、B2のうちでは「腫瘍が片葉(前立腺の片側)の50パーセントを超えて拡がるが、両葉には及ばない」B2である。「TNM分類」ではT1〜T4のうち「腫瘍が前立腺内に限局している」T2で、さらにT2のうちのa〜cでは「腫瘍が片葉の50パーセントを超えて拡がるが、両葉には及ばない」bで、すなわちT2bとなる。


 さらに、がんの性質の良し悪しを示す「グリソンスコア(GS)」がある。これは米グリーソン医師の名を冠した診断法で、顕微鏡で細胞の顔つき(構造異型)を観察し、判定する。GS値が高くなるほど癌細胞の異形の度合いが強まり、癌細胞の“顔つき”が悪くなる。なんとこのGS判定で私の場合は8と出た。ちなみに判定の基準は次の通りである。

 GS=2〜4 高分子がん(良い子、放っておいても大丈夫)

GS=5〜7 中分子がん(普通の子)

GS=8∼10 低分子がん(悪い子、悪化が早く再発・転移もしやすい)

さらにこうした各種判定を基にした総合的な「リスク判定」がある。私の場合は、「超低リスク」「低リスク」「中リスク」「高リスク」「超高リスク」の5段階のうちの4段階目の「高リスク」に判定された。


ちなみにこの「高リスク」判定の要件は、先の各種分類で、「T3a」以上、または「GS8~10」以上、または「PSA20超」となっている。私の場合はGSが8と高いだけで、それ以外「T2b」は「中リスク」相当、「PSA=6」は「低リスク」相当である。


癌宣告にはさほどショックも感じなかったが、タカをくくって受けた検査からだんだんと危険地帯に連れて行かれた感じではある。「PSA値がこれほど低いのになぜ高リスクの判定になるのか」と医師に“抗議”したら、「PSAが低い段階で高リスク癌を早期発見できたと考えるべきだ」と諭された。相談の結果、「外部照射放射線治療 3D-cRT」を受けることになる。5月末から7月半ばまで、とりあえず7週×5日=35回の放射線照射治療がはじまる。心境は「俎板の(老いぼれ)鯉」である。結果についてはいずれまた。


(山勘 2015年6月13日)

平和ボケした日本のマスコミ


NHKの番組で「サンデル教授の白熱教室」という人気番組がある。5月24日、パソコンで雑文を打ちながら、他のつまらない番組を掛け流していて、このサンデル教授の番組をハッと思い出したのは番組も終わりに近いころ、で、尻尾のほんの一部分を見た。


番組のテーマは「公共放送の未来を考えよう」。各国のジャーナリスト、NHKの中堅幹部とか所ジョージなどが視聴者と共に参加していた。私が見た個所は、戦争報道において「わが国」「わが軍」と報道することの是非で参加者に挙手を求めた場面だったが、公共放送においてはやるべきでないという意見のほうが多かった。では、オリンピックなど国際的なスポーツ競技ではどうかとなると、一転して「わが国」という報道も許されるのではないかという意見が多かったようだ。


その矛盾をサンデル教授が突いて論議が展開された。しかし、私はその論法に違和感をもった。失礼ながら戦争とスポーツ競技は明らかに違う。同じ“争い”でも事の本質は“真逆”である。それはともかくとしても、戦争の決断には内外の政治状況、彼我の経済力・軍事力、地理的な条件、最後は意思決定者の個性や勝負勘なども作用する。したがって、国民の判断も千々に乱れることになる。だから公共放送は「わが国」「わが軍」と“挙国一致”的な報道をしてはいけない、という判断にも一理ある。


しかし、オリンピックなど国際スポーツ大会は、参加国を募り、国家の総力を上げて、しかも戦いのルールを決めて(戦争にもルールがあるのだがそれはさておき)、国の総力(とは大げさだが)、競いあう戦いである。優勝を争い、メダルの数を争うのだから、「わが国」「わがチーム」を大々的に報道するのは公共放送の務めだとさえ言えるのではないか。


要するに、「戦争」と「スポーツ」を同列に並べて、公共放送が「わが国」「わが軍」などの用語を使うことの是非を問うこと自体がおかしいので、事の本質がまるで違う。情けないのは、サンデル教授の「矛盾追求」論法の“矛盾”について番組出席者、出席ジャーナリスト、NHK幹部の反論がなかったことだ。


ともあれ現代は、大げさに言えば、国際的な視野でマスコミの在り方が問い直される時代になってきている。サンデル教授の枝葉末節のレトリックに振り回されて、お行儀よく公共性を論じているようでは意味のない平和ボケしたマスコミ論になるだけだ。


問題はいろいろあるが、足元でいえば「公共放送の未来」を考えるこの番組を企画した公共放送NHKの不祥事続き、組織腐敗が問題だ。さらに目を“ご近所”に転じると、中国、韓国などの政治主張を振りかざした“我田引水”報道が問題だ。中韓の報道とりわけ中国の報道体制はおよそ公共性とは無縁である。


たとえば中韓の最近の変節ぶりで驚くのは、これまでの第2次世界大戦における“被害者”的立場から“勝利者”的立場に報道戦略のスタンスを切り替えたことだ。いまや中韓は日本に勝った国になったらしい。日本は完膚なきまでアメリカに敗れはしたが、中国や韓国に敗れたという自覚はない。しかし、いまや戦後70年の節目は中韓においては対日戦勝記念日となったらしい。それならこのあたりでわが国に謝罪を要求することを止めるべきだろう。


中韓に限らず異質の国家報道が世界に蔓延している。その上いまや新聞、放送に加えてネット報道が幅をきかせてきている。真実の追求や公共性だけでなく、政治的、感情的、煽動的、興味本位などの“操作”が加えられる報道が増えている。そうした世界の油断も隙もない報道戦略の中で、わが国の情報・マスコミの平和ボケが目立っている。いまこそ報道の「公共性」だけでなく「わが国」の報道を問い直すべき時ではないか。


(山勘 2015年6月13日)



 
 「ほしいです。 お金 ください。」



最近、日本経済新聞で添付の広告を目にした。四分の一ページとかなりの紙面を占める。

広告主は日本新聞協会とある。見慣れた商業広告に比べてちがう雰囲気で、白紙に大きな活字で、「ほしいです ください お金」とあり簡単そのもの、本気のほどさえ疑われるそっけなさである。白々しさにかえって興味をひかれた。インターネットで捜してみると、日本新聞協会広告委員会が毎年実施する「新聞広告クリエーティブコンテスト」への応募を呼びかける広告で、昨年1000件以上の中から選ばれた子鬼の作品は、なかなかおもしろい。


世の中ではお金をかけた広告があふれていて、そのわりには読み捨てられて、期待した効果があがらないのか、頭をひねって奇想天外な広告を作り広告主に売り込むワザを高めるのが目的か、などとヒネた想いをする。


私見を言えば、子鬼はいいが金はよくない。

フランスの新聞がイスラムの風刺マンガを掲載し、火付け役になった例もある。

金のための金、広告のための広告はいただけない。


(高幡童子 2015年6月15日)

IT技術の光と影


昨今のIT(Information Technology)技術の進歩は目覚しい。日進月歩とは正にこのこと。最新情報を常に入手しないとベテランの知識も陳腐化してしまう。


私狸吉は70年代からITに親しみ、本サイトの更新を担当している。振り返ると70年代初頭は、プログラムとデータを打ち込んだパンチカードの束を、会社の計算機室に預け、コンピュータの空き時間に計算してもらう状況だった。1976年にマイコンキットTK-80が発売されたとき、「やっと自分の手でコンピュータに触れる」と狂喜し、機械語でプログラムを始めた。その後Sharpのポケコンを入手し、BASICで書いたソフトが仕事で威力を発揮した。


1988年51歳で自営に転じたが、その当時発売されたばかりの98noteはHDDが搭載されておらず、OSとプログラムは毎回フロッピーディスクで読み込ませた。パソコン通信は600bpsのモデムを介し、DOSコマンドでテキストのみ送受可能であった。IT技術は90年代に急速に進化し、1995年Windows95が登場するとパソコンの操作は格段に楽になった。Eメールの通信速度もADSLの普及により向上した。


現在我が家には、デスクトップPC、ノートPC、タブレットPC各2台、それにKindleのPaperWhite2台を加えれば8台もIT機器が転がっている。通信環境は光回線とポータブル無線ルータでどこにいてもNETにつながる。60年代の状況にくらべ夢のような世界である。あれから30年、生きてこの世界を見られたのは有難い。


IT技術の進歩は有難いが、反面我々高齢世代には厳しい世界となりつつある。先ず第一は猫の目のように変わる技術に追い付けない。頭の回転速度が低下し、話を聞いてもパソコン誌を読んでも理解するのに時間が掛かる。一旦理解しても操作手順などすぐ忘れるから、また再出発を繰り返す。


タブレットPCにはWindows8が入っていたが何やら使い難い。NET上では「Win7にダウングレードして納入可能」などというタブレットPCの広告を散見するから、不満を持つ人はかなりいるのだろう。そもそも安定していたWindows7をなぜ大幅に変えたのか?自社に囲い込んだユーザから更新料を集めるための方策と見たのは僻目か?7月末発売のWindows10は7に近いと聞くので期待している。先日昔の勤務先の先輩社員にwin8への不満を述べたら、「ボクはまったく不便を感じないよ。8.1はいいOSだよ」との答え!聞けば退職後はパソコン教室の先生を続けている由。こういうプロは何でも使いこなすのだろう。


 第二の問題は思い通りに指が動かないこと。小さい画面の細かい字は拡大しないと読めない。指先で画面が広がるというが、win8ではこの操作ができない画面が多い。できる画面とできない画面が混在するのでイライラする。狭い間隔で並ぶアイコンに触れようと指先を近づけると、思ったとおりに動かず、隣のアイコンに触れてしまう。スマホを操作する若者たちを観察すると、彼等は電光石火の速さで指を動かしている!


どうやら狸吉は平成の御世まで生き延びた昭和年寄りの一人らしい。世間の流れから外れ淀みに漂っているのだ。しかし80代後半のパソコン先生に比べればまだ青二才。彼岸に渡る前に頑張ろうと思う。


(狸吉 2015年6月15日)